ショパン・コンクールも気がついたら終わっていた。まあ、私には全く興味がないのだから仕方がない。が、たまたま知った、1人の審査員の言葉にはいろいろと考えさせられるところがあった(私はそれを次のところで読んだ(:https://chopin-ongaku.com/krzysztofjablonski/)。
その審査員、クシシュトフ・ヤブウォンスキの見解は「演奏=作品解釈」だとすればまさに正論である。そして、その点で昨今の演奏家とその教育には批判されるべき点があるのは確かだ。
しかしながら、そのことを十分に認めた上で次のように考えることもできよう。すなわち、「演奏とは演奏者の創意や技芸を発揮する場であり、作品はその土台となるものにすぎない」とすれば、ヤブウォンスキ氏の批判は的外れだということになる、と。氏と彼が批判するピアニストは、いわば「同床異夢」の状態にあった、あるいは「同じ場で異なるゲームを営んでいた」というわけだ。
もっとも、こう言うと、「だからといって、若きピアニストたちの所行が許されるわけではあるまい。それはやはりああした伝統を重んじる場ではふさわしくないものなのではないか」と反論されるかもしれない。なるほど、昔々のピアニストたちの演奏が「楽譜に忠実」で「作曲家の意図」を実現しようとしたものだったのならば、そうした反論は妥当だと言えようが、事実はそうではない。つまり、種々の文献や録音が教えてくれるのは、昔のピアニストの演奏が「作品解釈」に尽きるものではなく、多分に「創意や技芸を発揮する場」だったということである。だとすると、今日のある種のピアニストたちの演奏ぶりは批判されるにあたらない(どころか、ある面で「伝統」を踏まえたものだということになる)。
とはいえ、20世紀に「演奏=作品解釈」という考え方が西洋芸術音楽の世界で支配的になっており、今日でも基本的には替わっていないのは確かだ。それゆえ、ヤブウォンスキ氏があのようなことを言うのは当然といえば当然のこと。だが、これからの西洋芸術音楽の「生き残り」のためには、従来の伝統を重んじるだけではなく、氏が嘆くような演奏のありようについても真剣に向き合ってみる必要があるのではないだろうか。その点で氏の批判は(本人の意図はともかく)「演奏」というもののあり方を問い直す議論を喚起するという意味でまことに有益なものだったと思われる。
なお、それはそれとして、「ショパンの音楽を正しく守り、演奏の様式を次世代に伝えること」が大切だというならば、そもそもコンクールなどというものは止めにした方がよかろう。それよりもむしろ教育や啓発活動にもっと力を注ぐべきではあるまいか。
ところで、ヤブウォンスキ氏が言う「演技的演奏」への批判(「目を閉じれば何も感じないのに、目を開ければ劇場が始まる。これは音楽ではありません」)には大いに頷ける。身体や手を過度にくねくね動かしたところでよい演奏ができるわけではない(し、まことに見苦しい)。