神ならぬ人は無から有を生み出すことはできない。ゆえに、何かを創りだそうとすれば、既存のものから何かしら学ぶ必要がある。が、その際、最初はお手本をコピーするくらいのつもりでやらなければならないが、いずれはそこから離れなければならない。また、いくらお手本にすべきものが多くあるからといって、何でもかんでも吸収すればよいというわけではない。自分なりに取捨選択ができなければ、独自のものなど生み出せるはずもない。世の中には何でも知っていて何でも器用に真似できる人というのがいるものだが、そうした人には真の意味での創作は無理なのではないか? [追記:音大作曲科の入試でのこと。ある受験生に対して伊福部昭はこう問うた――「あなた、嫌いな作曲家や音楽がありますか?」。それへの答え――「いえ、特にありません。なんでも抵抗なく聴けるほうです」。すると、伊福部はこう断じたのである――それは、お気の毒だな、嫌いなものが無なければ自分の曲は書けない。本物の作家は嫌いなものだらけですよ」(西村朗『曲がった家を作るわけ』、春秋社、2013年、94頁)]
私は作曲家ブゥレーズの熱烈な支持者というわけではない(もちろん、好ましく感じている作品もいくつかある)が、彼が過去の作曲家の業績をまことに「選択的」に読み解くさまは紛れもなく一流の創作者のものだと思わずにはいられない。