2023年3月31日金曜日

「邦楽」という呼称

  海外のポピュラー音楽のことを「洋楽」というのに対して日本のそれのことを「邦楽」というのはご存じの通り。だが、私は長らくこの呼称に抵抗感があった。つまり、自分にとって「邦楽」というのは日本の伝統音楽のことであって、いくら国産だからといって西洋音楽ベースの音楽のことをそう呼ぶのはいかがなものか、とずっと思っていたのである。

が、あるときからそうした抵抗感はきれいさっぱりなくなった。というのも、日本でなされている西洋音楽は大なり小なり「日本化」されたものであって、ならばそれを「邦楽」と呼ぶのは至極当然のことだと得心したからだ。

そして、それとともに「日本人なのに自国の伝統音楽を知らないのは恥ずかしいことだ」とも感じなくなった。もちろん、中には興味が持てるものもあり、自分なりに楽しんではいる(たとえば、この4月にも文楽を観に行く予定がある)が、もはやそれを体系的にお勉強したいとも、そうしなければならないとも思わない。「日本」は自分が今行っている音楽の中に十分にあり、その正体を探る方が先決である(その過程で必要に応じて伝統邦楽や民謡などをお勉強することにはなろうが)。

2023年3月30日木曜日

観ちゃいられない

  先日、ある若手ピアニストの動画を観はじめたところ、動作や表情があまりに見苦しいので嫌になって途中で止めてしまった。「見苦しい」というのは、それが音楽の鳴り響きに合っていなかったからだ。身体の動きは音楽以上に大げさだし、百面相も観ちゃいられない。なぜ、そのようなことになるのだろうか。ピアノを歌わせることにかけては他の追随を許さないホロヴィッツはほとんど微動だにせず、あの濃やかな音楽を奏でてみせるというのに。

 もちろん、「演奏中の大きな動作が悪い」というのではない。少し前に話題にしたコパチンスカヤの演奏では、その多種多様な動作は音楽と見事にマッチしており、相乗効果をあげていたわけで、要はそれが演奏全体の中で意味を持っているかどうかが問題なのである。そして、この意味で件の若手ピアニストの演奏にはそれが感じられなかった。のみならず、鳴り響き自体にも魅了されなかった(たぶん、音だけを聴いていたとしても、同じふうに感じたのではないだろうか)。残念。

 

 シャルル・ケクランは名著『和声の変遷』で近代の多種多様な和声の語彙を実作品を例にカタログ的に示してみせたが、同様なことをもっと対象とする作品の範囲をさらに後の時代にまで広げて――ただし、あくまでも広い意味での「調性」を持つ、つまり、中心音を持つ作品に限って――試みたら面白かろう。

 

2023年3月25日土曜日

メモ(92)

  たとえば桑田佳祐などが日本語の歌詞を部分的にまるで米語のように発音していること(個人的にはそうした歌い方は好きではないが……)を「日本語の破壊」だなどと非難するわけにはいかない。西洋芸術音楽の「ベル・カントによる日本歌曲」のことを思えば。いずれにせよ、「創造」に「破壊」はつきものである(が、「ベル・カントによる日本歌曲」については、何かができあがるまでの「過渡期」の流儀であるように私には思われる)。

 

 今日、ある「現代音楽」の新作を試しに聴いてみたが、苦痛のあまり、途中で止めてしまった。 そうした音楽が「斯界」では評価されるのだとすれば、自分はそこに無縁でもかまわないと思った。もちろん、西洋芸術音楽の「現代の音楽」はそうした類のものにつきるわけではないだろうから、これからも懲りずにあれこれ聴き続けたい。

2023年3月21日火曜日

楕円の2つの焦点のごとく

  伝統を踏まえて作品を解釈する演奏家の存在はクラシック音楽にとって必要不可欠だが、その対極にある「作品をダシに創造を行う」演奏家の存在も欠かせまい。両者はいわば楕円の2つ(もちろん、それ以上でもかまわない)の焦点のごときものであり、その緊張関係と生産的なやり取りが斯界を活性化させるだろうから(これは他の領域の事柄についてもいえることだろう。1つの中心点にすべてが収斂させられるような世界など、考えただけでもぞっとする)。もし、クラシック音楽が純然たる「伝統芸能」になってしまうとすれば、その未来はあまり明るくはない。が、たぶん、そうはならないだろう(と思いたい)。

 

 先日、たまたまつけたラジオで松田聖子が歌う〈瑠璃色の地球〉を耳にしたが、曲にも歌いっぷりにも魅せられてしまった。また、今日は中島みゆきの〈ファイト!〉がラジオで他の人によるカヴァーでかかっており、本人の歌が気になったのでYou Tubeで聴いてみたところ、これにもぐっと引き込まれる。

2023年3月19日日曜日

プログレ・ベートーヴェン

  今日はパトリツィア・コパチンスカヤの音楽を聴いてきた(於:ザ・フェニックスホール(大阪))。演目は次の通り(https://phoenixhall.jp/performance/2023/03/19/18733/):

 

▼シェーンベルク:幻想曲 op.47

▼ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 7 ハ短調 op.30-2

 

▼ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 op.7

▼ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 9 イ長調 「クロイツェル」 op.47

 

いずれの演目でもコパチンスカヤが繰り広げたのは「既存の作品の解釈」というよりも「他者の作品を土台にした創造」であり、だからこそはじめに「コパチンスカヤの音楽」という言い方をしたわけだ。そして、そこでの「創造」はまことに刺激的だった。

 とりわけ驚いたのがベートーヴェンの第7ソナタだ。その演奏はいわば「プログレッシヴ・ロック」のごときもので(さらにいえば、民俗音楽調でもあった)、およそこの曲の標準的な演奏解釈からは遠く離れたていたのだが、音楽としての説得力は抜群なのだ。そのような演奏を可能ならしめるものが作品の中に潜んでおり(ベートーヴェンの音楽は作曲当時の音楽界では紛れもなく「プログレ」だったろう)、それをコパチンスカヤがうまく引き出して自分なりに自由に発展させた、とでも言えようか。このことは他の作品の演奏にも言えることなのだが、第7ソナタをとりわけ面白く感じたのは、「よくある」演奏との大きな違いとそこに現れている彼女の「創造」の大胆さと説得力のゆえである(その点ではシェーンベルク作品の演奏も実に見事)。いや、とにかく面白かった。

 そんなコパチンスカヤとともに「創造」に参加していたのが共演のピアニスト、ヨーナス・アホネンである。今回の演目の1つ、「クロイツェル」ソナタを彼女はファジル・サイ(彼もまた「創造」的な演奏をする人である)と録音を行っており、そこでもスリリングな演奏を繰り広げているのだが、今回のアホネンとの演奏の方が「プログレ」度が高かった! 以前、アホネンが弾くアイヴズのソナタの録音を聴いたときにも「この人はタダモノではない」と感じたものだが、今回実演に触れ、コパチンスカヤとともに見事に音楽ドラマをつくりあげていくさまを聴き(観て)、その感を強めた。いずれ独奏も実演で聴いてみたいものだ。

 アンコールは2曲。1つめは「作曲者当てクイズ」だったが、これはわからなかった。いや、まさかあの大家の曲だったとは……。そして、もう1つはギヤ・カンチェリのコミカルな小品。この人の音楽もいずれきちんと聴いてみたい。

 ともあれ、まことにすばらしい演奏会であった(たぶん、「クラシック音楽」に日頃なじみのない人が聴いても楽しめるものだったろう)。どうもありがとうございました。

2023年3月16日木曜日

メモ(91)

  音楽にはそれぞれにスタイルがあり、それに見合った「聴き方(型)」があるというのは本当だろう。が、だからといって、聴き手が想像力を働かせて自由に聴いていけないというわけでもあるまい(もちろん、「しかるべき聴き方(型)」と「自由な創造的聴き方」とでは属するゲームが異なる。この点については拙著『演奏行為論』を参照のこと。なお、前回取り上げたカウエルの作品に対して、私はまさに後者の聴き方をしたわけである)。音楽の抽象性はそうした「自由」へと聴き手を誘うものであり、それがなければ大昔の曲が今でも聴かれ続けるはずもない。

2023年3月10日金曜日

伊左治直さんの特集番組

  存命の日本の「現代音楽」作曲家で私が好んで作品を聴く人はあまり多くない。が、伊左治直(1968-)さんは数少ない例外の1人である。理屈抜きに聴いて楽しいのだ。

 その伊左治さんの特集が明後日、NHK-FMの「現代の音楽」なされるとのこと(https://www4.nhk.or.jp/P446/x/2023-03-12/07/72041/4652080/)。この番組は今やほとんど聴いていないのだが、これは聴き逃せない。実のところ放送される作品の中で1曲を除いては手持ちのCDhttps://www.amazon.co.jp/%E4%BC%8A%E5%B7%A6%E6%B2%BB%E7%9B%B4-%E3%80%8C%E7%86%B1%E9%A2%A8%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%8A%87%E5%A0%B4%E3%80%8D-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA35-%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E8%8A%B8%E8%A1%93%E7%89%B9%E9%81%B8%E7%9B%A4-%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B001EB5DBK/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=W86ICTWVR7H&keywords=%E7%86%B1%E9%A2%A8%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%8A%87%E5%A0%B4&qid=1678448250&s=music&sprefix=%E7%86%B1%E9%A2%A8%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%8A%87%E5%A0%B4%2Cclassical%2C183&sr=1-1)で愛聴しているのだが、その「手持ち」ではない「1曲」を聴きたいのだ。とにかく楽しみである。伊左治さんの音楽を知らない(のみならず、「現代音楽」にもあまり興味はない)方にも強くお勧めしたい(なお、番組は1週間、NHKの聞き逃し配信サイトで聴ける:https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html)。

2023年3月5日日曜日

水の戯れ

  ラヴェルの《夜のギャスパール》第1曲〈水の精〉を使ってちょっとした戯れを。好奇心旺盛な方はお試しあれ。

 (1)まず、インターネットのブラウザで複数(試しに4つぐらい)のタブを開いておき、それぞれで次の動画(https://www.youtube.com/watch?v=fbKoTckghqs。別にこれでなければならない理由はない。が、広告のないものがよい)を再生できるように準備しておく(2つめ以降のタブには動画のアドレスをコピーして貼り付ければよい)。(2)それらを順番に任意の間隔で再生していく。(3)そして、途中で個々の動画の音量を変えたり、停止したり、巻き戻しや先送りをする――以上である。すると、そこには音の万華鏡が現出するだろう。

もちろん、いきあたりばったりにではなく、事前に表をつくって、音の重なりを厳密にコントロールするという手もあろう(そうすれば、1つの「作品」とすることもできよう)が、まあ、たわいもない遊びなので、偶然に任せた方が面白かろう。

2台のピアノを使えば、この「戯れ」を生演奏でできる ことになるが、さすがにそれはラヴェル先生に対して失礼だろうか!?

 

「新しい実在論」は一方で「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」(マルクス・ガブリエル(清水一浩・訳)『なぜ世界は存在しないのか』、講談社、2018年、31ページ)としつつも、他方で「物および事実それ自体は唯一の対象領域にだけ属するわけではない」(同)と主張する。なるほど、この論が批判する「形而上学」や「構築主義」よりもこちらの方が多くの人々の実感に合っているようには思われる。

が、「音楽作品」、つまり、その現実化が数多の姿を持ちうるものの「実在」とは何なのだろうか?


2023年3月1日水曜日

池内友次郎の《日本古謡によるバラード》

  池内友次郎(1906-91)の若き日の佳曲《日本古謡によるバラード》作品81934/36)が全音楽譜出版社から刊行されるとのこと(http://shop.zen-on.co.jp/p/338031)。1956年に教育出版から刊行されて以来、およそ60年以上の時を経ての復活である。果たしてこの作品は現在のチェリストや聴き手はどう受け取るだろうか。少なからず興味の持たれるところだ。

 全音は近年、こうした過去の日本の作曲家の作品をあれこれ刊行しているが、まことに興味深い試みである。次は諸井三郎のピアノ・ソナタ第2番あたりを期待したいが、どうだろうか。また、昔の同社のカタログを飾っていた数々の作品も(音楽之友社のように)オンデマンドで販売してくれればありがたい。

 

 そういえば、全音からは同じときにプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番のスコアも出る(http://shop.zen-on.co.jp/p/892681)。これもとてもうれしい。Boosey & Hawkesのスコアは高価で到底手が出なかったので。全音には他のプロコフィエフ作品の続刊も大いに期待したい。