2024年5月30日木曜日

サンドロ・フーガ没後30年

  今頃気づいたのだが、今年はサンドロ・フーガ(Sandro Fuga, 1906-94)の没後30年だった。彼の音楽は流行廃りとは無縁である。これからも爆発的に人気が出ることはないだろうが、それを愛する人は少数であっても絶えることはなかろう。私もまた、フーガの音楽を「愛する人」の1人である(ヴァイオリン・ソナタ第1番(1938-39):https://www.youtube.com/watch?v=oTKsyE9nALk

 

 おっと、忘れてはいけない人がもう1人。松本民之助(1914-2004)の没後20年でもあった。この人の音楽はいずれ再評価されるときがやってくると私は確信している。

2024年5月28日火曜日

金澤攝さんの演奏会シリーズ〈ライネッケのピアノ音楽〉

  今年はカール・ライネッケ(1824-1910)の生誕200年。というわけで、金澤攝さんが全6回の予定で〈ライネッケのピアノ音楽〉という演奏会シリーズを行う(於:スタジオ・ルンデ(名古屋)。第1回の内容はこちら:https://dbf.jp/runde/r240526/)。これはすごい。これが関西の演奏会ならば何とか聴きに行くところだが、私にとっては名古屋は些か(金銭面で)遠い……(残念)。が、興味と余裕のある方は是非!

 実のところ私はそれほどライネッケの作品を知っているわけではない(その膨大な作品数からすれば、「ほとんど知らない」 という方が正確だ)。が、自分が知る限りの作品から判断するに、やはり彼は偉大な作曲家だと思う。

2024年5月26日日曜日

「会話なんか出来なくていいから読めることが大事!」?

 「語学は必ず身につけなければいけない! [……]誤訳が多い世界だから、原語で正確()に読めることは必要!!」――名ピアノ教師として知られた森安芳樹(1937-98)はかつてこう語ったという(http://www16.big.or.jp/~karo/research/218/words1.html)。なるほど、氏によるアルベニスの《イベリア》その他での綿密な校訂と示唆に富む解説を可能ならしめたのは、1つにはその卓越した語学力であったろう。そして、そもそも「誤訳」以前に翻訳のない重要な文献が山ほどあるのだから、演奏家にとって語学力が大いに役立つのは間違いあるまい。

 とはいえ、その発言の中で森安はこうも言うのだ。すなわち、「会話なんか出来なくていいから読めることが大事!」だと(正直に告白しておけば、私もある時期までそう思っていた)。だが、果たしてそんなことで、言語の音と深く結びついた音楽について「ただ楽譜の上っ面を読めるということではなく、その奥深く、テンポから表情からその音楽自体を楽譜から読める、あるいは聴ける、という能力を普通に活字を読むごとくこなせるよう身に付け」(同上)ることができる――精確に言えば、「日本語的」ではない「読み方」や「聴き方」ができる――ものだろうか(付言しておけば、「普通に活字を読むごとくこなせるよう」という言い方に問題の一端が現れているように思われる)

 ともあれ、この森安の発言は日本における洋楽受容史の一齣としてまことに興味深い。

2024年5月25日土曜日

メモ(108)

  ‘philosophy’が普遍的な思考様式などではなく、(いかにその影響力が大きなものだとしても)根本的にはローカルなものなのだとすれば、西洋(という括り方は大雑把すぎるが、ここでは便宜上こうしておく)の’music’についても同じことが言えよう。

実際、元々は不可算名詞だったこの語にもある時期から’musics’というふうに複数形が認められるようになってきている。「日本の西洋音楽」もそうした数ある’musics’の中の1つだとみなせば、いろいろと面白い問題が見えてくる。

2024年5月24日金曜日

「目に見える形式」と「耳に聞こえる形式」の不一致

  楽譜で確認できる形式(=目に見える形式)と実際に耳で聴いて認識される形式(=耳に聞こえる形式)は必ずしも一致するとは限らない。それゆえ、分析を楽譜情報に頼りすぎると音楽の実際のありようにそぐわないことになってしまう。ある種の「現代音楽」については言わずもがなだが、たとえば「自由なソナタ形式」など、「自由な○○形式」として説明される曲などでもこうしたことが起こりがちのような気がする。なるほど、作曲家はそうした曲で種々の既存の形式を下敷きにしたのかもしれないが、それとは異なる音楽を考えていたのかもしれず、となると、耳に聞こえる形式をそのまま記述した方がよいこともあろう。

2024年5月23日木曜日

「コミットする」は日本語か?

  外国語の語彙には日本語になりにくいものがある。とりわけ、専門用語にはそうしたものが少なくない。それを強引に訳そうとすると、元は1語なのに数多くの言葉を費やさねばならなくなってしまうこともよくある。それゆえ、そうしたものはやむなく音訳に留めざるを得ないのも確かだ。

 とはいえ、そうではない普通の語彙をそのまま音訳するのはいかがなものだろうか。たとえば、しばしば邦訳書で目にするのが「コミットする」という言い方だ。なるほど、この語もなかなかに訳しにくい語ではあるが、文脈に即して考えれば(そして、辞書に挙げられている訳語の字面から少しばかり外れる勇気があれば)普通の日本語で十分に置き換えることができるものだ。それゆえ、こうした「音訳」語を見ると私には手抜きに思えてくる*。そして、この手の語が翻訳の中に次々と出てくると、次第に読む気も失せてくるものだ。

 最近もそうした音楽書の翻訳に出会った。それは待望の邦訳であったはずのものなのに、とにかく音訳語の数の多さに呆れ(たのみならず、訳文のどことなく攻撃的な文体も今ひとつ好きになれなかったし、よく読むと日本語として粗が目立つ翻訳だったので)、途中からは斜め読みに……。残念なことである。

 

*手持ちの英和辞典を見ると、驚くべきことにcommit の訳語の1つに「コミットする」とあった。私個人の感覚ではこれは受け入れがたいが、そうではない人も少なくないということなのだろう。まあ、言葉は生き物なので仕方がないことではあろうか。とはいえ、少なくとも私は「コミットする」という言い方はしたくない。

 

2024年5月19日日曜日

モートン・ローリゼン

  先ほどラジオをつけたら、何とも妙なる合唱の調べが聞こえてきた。現代の感覚からすれば何とも古式ゆかしき音調なのだが、さりとて本当に大昔の音楽だというわけでもない。「いったい誰の曲かなあ」と思いながら聴いていたら、演奏が終わり、作曲者と曲名が告げられた。それはモートン・ローリゼン(Morten Lauridsen, 1943-)の《薔薇の歌 Les Chansons des Roses》(1993)というものだった(ラジオとは異なる音源だが参考までにhttps://www.youtube.com/watch?v=4O5wuizenu8)。

私にとっては全く未知の作曲家と音楽だったが、NHK-FMの「ビバ! 合唱」という番組の今回の題名には「現代の人気作曲家」とある(https://www.nhk.jp/p/viva/rs/8P466QK189/episode/re/4VRWZXV6XG/)。この「人気」というのは合唱の世界でのことなのだろうが、他の作品も聴いてみると、なるほどそうした人気も十分頷ける。のみならず、自分も合唱に加わって歌ってみたら楽しいだろうなあと思った。

ところで、ふと気になって、Oxford Music Onlineで調べてみると項目があった(米国の作曲家なのだが名前の綴りからすれば北欧がルーツの人に思われたが、果たしてデンマーク系だった。なお、Morten Lauridsenという名はデンマーク語の発音では「ン・ウリトスン」(赤字が強勢)となるそうだ(https://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/danish/dictionary/det_hele.pdf)が、もちろん、米国の生まれ育ちなので英語読みすべきだろう)。しかし、それはこれほどの大きな辞典だからこそであって、タラスキンの浩瀚な音楽史本の20世紀後半の巻にもThe Cambridge History of Twentieth-Century Musicにもローリゼンの名は出てこない。まあ、これは仕方がないことではある。音楽の世界もまた広いということであり、そのすべてを1冊の本でカヴァーできるはずもないからだ。とはいえ、そうした「世界の広さ」に対して、1人の人が自分で「これが音楽だ」と思っている世界の「狭さ」は忘れるべきではなかろう。

 さて、上記ローリゼンの音楽はとてもよい感じだったので、件の番組は最後まで聴いてしまった。ところが、その後の番組「現代の音楽」(以前は長らく聴いていなかったのだが、最近はなるべく聴くようにしている)は残念ながらさに非ず。今回は「笙アンサンブル」の演奏会が取り上げられており、「これは面白そうだ」と思って聴きはじめたら、最初の作品があまりに馬鹿げたものだった(笙にわざわざ奏でさせるような類の音楽ではなかった)のでラジオのスイッチを切ってしまったのである。これは私の音楽世界の「狭さ」のゆえであろうが、決してそれだけではないとも思う。

2024年5月16日木曜日

キュビスム展へ

  今日は京都市京セラ美術館へ「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展 美の革命」を観に行ってきた(https://cubisme.exhn.jp/)。前から楽しみにしていたのだが、まことに充実した内容で大満足。キュビスムの絵画や彫刻をずっと観ていると、何か異次元に迷い込んだような気がして面白い。

 そんなときに思い浮かぶのがストラヴィンスキーだ。既存の素材を解体し、妙な具合に変形し、再構成した彼のある時期の音楽はキュビスムの画面を彷彿させる。今日、数々の絵画や彫刻を眺める私の頭の中ではストラヴィンスキーの音楽があれこれ鳴り響いたのだった。

 それにしても、このキュビスムに限らず、ある時期までの芸術には少なからぬ人々を巻き込み、夢中にさせたムーヴメントがいろいろあったが、今はどうか。

2024年5月9日木曜日

「日本語的演奏」は本場で受け入れられることになるのか?

  先日、ピアニストの辻井伸行氏が日本人ピアニストとしてははじめてドイツ・グラモフォンと専属契約を結んだというニューズに接した。まことに喜ばしいことである。今後の海外でのさらなる活躍を祈りたい。

 とともに、私はもう1つ、別な関心を抱いている。辻井氏の演奏は典型的な「日本語的演奏」なのだが*、そうしたものが西洋芸術音楽の本場で(すでに活動している氏が)これまで以上に受け入れられていくことになるのか、あるいは、もしかしたらいずれ拒絶されることになるのかが大いに気になるのだ。もちろん、前者であって欲しいし、それは西洋芸術音楽にとっても長い目で見ればプラスになると思うのだが……。

 

*「日本語的演奏」については次を参照:https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja。また、その例として、辻井氏が弾くラフマニノフの第3協奏曲のある箇所(次の動画の4’20”以降:https://www.youtube.com/watch?v=VlsxkBSMO14)を、そして、比較対象として作曲者自身の演奏で同じ箇所(次の動画の4’03以降:https://www.youtube.com/watch?v=UKziGGumuEk)をあげておこう。これはどちらが「正しい」とか「正しくない」とか、あるいは、「よい」とか「悪い」とかいうことなのではなく、端的に異なっている。

2024年5月4日土曜日

NHK『みんなのうた』で

  先日、たまたまNHK-FMでお目当ての番組の合間にあった『みんなのうた』で次の曲を聴いた。曲も歌もすてきだ:https://www.youtube.com/watch?v=6wmgO3uJ3eg

2024年5月3日金曜日

別宮貞雄の失言?

  別宮貞雄(1922-2012)は作曲家であるとともになかなかの論客であった。そして、私はどちらかといえば、後者の点で別宮に敬服している(彼の音楽作品も嫌いではないが、今のところ深い感銘を受けるには到っていない)。彼の文章は常に明晰であり、強い説得力を持っているからだ。

 が、そんな別宮の言葉とは思えないようなものに出会って驚いたことがある。それは中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』(中央公論新社、2022年)に納められたインタヴューの一節である。そこで別宮は「評論家というのは自分で音楽ができるわけではないし、本当のところたいしてわかっていない」(同書、437頁)と言うのだ。

  もちろん、作曲家・別宮貞雄がこう言いたくなる気持ちもわからぬではない。というのも、彼の作品は「現代音楽」全盛期に評論家から概ね冷遇されてきたからだ。しかしながら、それはそれとして、もし、音楽の専門家にしか本当にわからないような作品を自分が書いているのだとすれば、別宮はごく普通の聴き手のことをどう考えていたのか。 

いや、これは少しばかり意地が悪かった。おそらく、別宮には普通の聴き手のことを貶めるつもりは微塵もなかったろう。というのも、回想録『作曲生活40年 音楽に魅せられて』(音楽之友社、1995年)の中で、一般大学の学生が書く自作《有間皇子》への感想文について「中々立派な感想文があるのである。[……]専門の批評家も言ってくれなかった文藻にぶつかる」(同書、199頁)などと述べているからだ。つまり、別宮は普通の聴き手のことを決して低く見ているわけではないのだ。それゆえ、先にあげた「評論家というのは」云々の一節は、やはり評論家への積年の恨みが言わせた言葉だと解すべきだろう

だが、それはそれとして、実のところ、別宮が言うことには一片の真実が含まれているとも私は思う。すなわち、専門の音楽家とそうではない者の間では音楽の受け取り方は何かしら違ったものであらざるをえない、ということだ。ただし、それは前者の受け取り方が正しくて後者のそれが間違っている、などといった単純な話ではない。それに類することはこれまでにもこのブログの中で何度か述べてきた(し、拙著『演奏行為論』でも演奏というものに関して同様な問題に触れている)のだが、その本格的な展開を今年こそは『ミニマ・エスティカ』で行わねば……。