別宮貞雄(1922-2012)は作曲家であるとともになかなかの論客であった。そして、私はどちらかといえば、後者の点で別宮に敬服している(彼の音楽作品も嫌いではないが、今のところ深い感銘を受けるには到っていない)。彼の文章は常に明晰であり、強い説得力を持っているからだ。
が、そんな別宮の言葉とは思えないようなものに出会って驚いたことがある。それは中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』(中央公論新社、2022年)に納められたインタヴューの一節である。そこで別宮は「評論家というのは自分で音楽ができるわけではないし、本当のところたいしてわかっていない」(同書、437頁)と言うのだ。
もちろん、作曲家・別宮貞雄がこう言いたくなる気持ちもわからぬではない。というのも、彼の作品は「現代音楽」全盛期に評論家から概ね冷遇されてきたからだ。しかしながら、それはそれとして、もし、音楽の専門家にしか本当にわからないような作品を自分が書いているのだとすれば、別宮はごく普通の聴き手のことをどう考えていたのか。
いや、これは少しばかり意地が悪かった。おそらく、別宮には普通の聴き手のことを貶めるつもりは微塵もなかったろう。というのも、回想録『作曲生活40年 音楽に魅せられて』(音楽之友社、1995年)の中で、一般大学の学生が書く自作《有間皇子》への感想文について「中々立派な感想文があるのである。[……]専門の批評家も言ってくれなかった文藻にぶつかる」(同書、199頁)などと述べているからだ。つまり、別宮は普通の聴き手のことを決して低く見ているわけではないのだ。それゆえ、先にあげた「評論家というのは」云々の一節は、やはり評論家への積年の恨みが言わせた言葉だと解すべきだろう
だが、それはそれとして、実のところ、別宮が言うことには一片の真実が含まれているとも私は思う。すなわち、専門の音楽家とそうではない者の間では音楽の受け取り方は何かしら違ったものであらざるをえない、ということだ。ただし、それは前者の受け取り方が正しくて後者のそれが間違っている、などといった単純な話ではない。それに類することはこれまでにもこのブログの中で何度か述べてきた(し、拙著『演奏行為論』でも演奏というものに関して同様な問題に触れている)のだが、その本格的な展開を今年こそは『ミニマ・エスティカ』で行わねば……。