2025年12月31日水曜日

2025年大晦日のあれこれ

  2025年も今日で終わり。振り返ってみれば、今年は(今年も?)「惑いの年」だった。来年はそこから脱出しなければなるまい。そのためにはいろいろ模索中の2つの課題をきちんとこなす必要がある。

 

今年いろいろ聴いた音楽の中でとりわけ深い感銘を受けたのは、アンジェイ・パヌフニク、ルベルド・ジェラルト、アルバン・ベルクとダリウス・ミヨーの作品だ。これまでも彼らの作品を聴き続けてきてはいたが、「こんな凄い音楽だったのか!」と遅ればせながら気づいた次第。というわけで、それらの作曲家と作品についてもっと深く知りたいと思っている。

 

前回話題にしたリヒャルト・シュトラウスだが、今頃彼の音楽をいっそう面白く感じだしたのは、このところ聴いている演奏のおかげであろうか。それはルドルフ・ケンペ(1916-76。来年は没後50年)指揮の演奏で、実に魅力的なのだ。彼の手にかかると音楽が実に劇的に鳴り響くのだが、それが決してつくりものめいておらず、そこに聴き手を自然に引き込んでくれる。

 

家族が「紅白歌合戦」を観ており、私も時折覗きにいっているのだが、「昭和歌謡」のスターたちの技芸に圧倒される。岩崎宏美、矢沢永吉、郷ひろみといった人たちはもはやかなりの年齢にもかかわらず、今でも現役の歌手たちであり、実に見事なパフォーマンスを聴かせ、見(魅)せてくれるのだ。いや、凄いものである(もちろん、若い歌手たちの中にもなかなか面白そうな人がおり、楽しませてもらっているが、自分の感覚にしっくりくるのは昭和歌謡の方である。まあ、私も昭和世代の者なので仕方がないか……)

2025年12月27日土曜日

メモ(151)

  実在論と観念論のいずれが正しいかは原理的に決めようがない。となれば、どちらを採るかは、結局のところ、その人の「生き方」の――すなわち、いずれに拠る方が自分にとっての生の現実にしっくりくるものであり、生きてゆきやすいのかという――問題ではなかろうか。

 

 ここ数日、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲を楽しんでいる。昨日は《ドン・キホーテ》、今日は《アルプス交響曲》 を聴いたが、そうした作品での見事な職人芸には胸を打たれずにはいられない。

2025年12月24日水曜日

ミヨーのブラームス嫌い

  以前ダリウス・ミヨーの交響曲のことを話題にしたが、その後、ますます彼の作品に魅せられている。とりわけ響きの美しさと神秘的なところが私の胸を打つ。今聴いているのは交響曲と弦楽四重奏曲の全曲だが、しばしば「いったい、そこはどんなふうに書かれているのだろうか?」と気になる箇所に出くわす。大学の図書館でいくつかのスコアは借りられたのだが、そうではない曲もいろいろあるのが困りもの。まあ、「求めよ さらば与えられん」ということで気長にその機会を待つことにしよう。 

そのミヨーのヴァーグナー嫌いは有名だが、ブラームスもそれに劣らず嫌っているとは最近まで知らなかった。対話録『音楽家の肖像』(別宮貞雄・訳、音楽之友社、1957年)の中で彼がブラームスのことをこう言っているのには驚いた――「そこ[ブラームスの音楽]に贋の偉大さがのさばり返り、贋の感受性が涙を流しているのを感じ、その展開部における長たらしい駄弁には死ぬ程悩まされるのです」(同書、65頁)。いやはや、何とも激しい嫌いぶりである。ブラームス愛好者の私としては些か受け入れがたい文言だが、当人がそう感じているというのだから仕方がない。そして、このことでミヨーの音楽を私が嫌うようになることもない。

2025年12月21日日曜日

高橋悠治の《オルフィカ》、新旧の録音

   高橋悠治の名曲《オルフィカ》1969)の新録音を聴く。これは以前にこのブログで話題にした(聴くことの叶わなかった)演奏会のライヴ録音である(私はCDを購ったが、You-Tubeでも聴けることを今日知った:https://www.youtube.com/watch?v=lW0UouPeaY0&list=RDlW0UouPeaY0&start_radio=1)。しかるべき水準の優れた演奏だと思う。

もっとも、それはそれとして、つい自分がなじんだ古い録音と比べてしまう(https://www.youtube.com/watch?v=dtWiio-8jMA&list=RDdtWiio-8jMA&start_radio=1)。すると、やはり両者の違いに驚かないわけにはいかない。もちろん、これはどちらがよいとか悪いとかいった問題ではない。どちらもそれぞれに聴かせる演奏であるからだ。それはやはり「時代」の違いだとしか言いようがない。すなわち、こうした作品が生まれた時代と、そうした時代が過去のもんとなってしまった現在との違いである(なお、私個人の好みではあるが、古い録音の方にいっそうの説得力を感じる)。

その間、およそ半世紀。それだけの時間で演奏がこうも変わってしまう。となると、今日演奏されているクラシック音楽作品の演奏など、作品誕生時とどれほど多くの違いを生み出していることか。とはいえ、だからこそ、すなわち、時代の移り変わりの中でその都度何かしら適したかたちを採ることができるからこそ、往時の作品は生き続けられるのだろう。 

この《オルフィカ》を収めたCDには他にも新旧の作品が収められており、どれもそれぞれに面白い。ともあれ、同じメーカーから出ている作品集の第1弾と合わせて、高橋の「前衛音楽」作曲家時代のかなりの作品を聴くことができる。これで自分の少年時代以来の好奇心を満たす――つまり、名のみ知ってはいても実際の音を知らなかった作品を聴く――ことができてうれしい。

2025年12月14日日曜日

残念

   ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-)の《Post scriptum》(1990)(https://www.youtube.com/watch?v=92KkpN-o-TI&list=RD92KkpN-o-TI&start_radio=1)を初めて聴いたとき、「これはすばらしい」と思った。そして、今でもそれは変わらない。一歩誤れば甘美なムード音楽になりかねないぎりぎりのところで踏みとどまり、何か切実なものを必死に伝えようとしているこの作品には感動を覚えずにはいられない。

が、そんな作品を産み出した作曲家のその後には些か唖然とさせられる。たとえば、次のものなどどうだろう:https://www.youtube.com/watch?v=bhvh0oNE0Ws&list=RDbhvh0oNE0Ws&start_radio=1。そこにはかつての緊張はなく、あるのは甘さのみ。しかも、楽譜の指示は異様に細かく、弾き手を縛り付けること夥しい(この点は上述のPost scriptum》も同じではあるが、作品の質が違いすぎる)。これでは20世紀前衛音楽の譜面と本質的に同じではないか。もし、これがもっと普通に記譜されていたのならば、「まあ、こんな音楽があっても悪くはないかなあ」と思うところだが、これではどうしようもない。では、別の作品ではどうだろうか:https://www.youtube.com/watch?v=HbW-U0krHk0&list=RDHbW-U0krHk0&start_radio=1。私にはこれも大差ないようにしか見えない(し、聞こえない)。

 少し前にたまたま大学図書館で最初にリンク先をあげた作品の楽譜が目に留まったので、それを機会にシルヴェストロフの作品を見(聴き)なおしてみたのだが、かように残念な結果に終わった(もちろん、こうした彼の音楽を好む人はいるだろうし、それはそれでけっこうなことだとは思う)。

2025年12月13日土曜日

つかの間の時間旅行

 昔々の楽器は、往時の音楽のありようを垣間見させてくれるタイムマシンのようなものだと言えようか。

今日は19世紀半ばや20世紀初頭のピアノに触れる機会を得て、つかの間の時間旅行を楽しむことができた(この手の楽器に触れるのは随分久しぶりのことである)。

もし、ピアノが現在のようなものにはならず、当時のままだったとすれば、音楽のありようも随分違ったものになっていただろうか?――これは無益な問いかもしれないが、ついそのようなSF的妄想がふと浮かぶほどに、往時のピアノはやはり魅力的だった(もちろん、現在のピアノにもそれとは違った魅力があるが)。

この貴重な機会を与えてくださったのが「アトリエ ピアノピア」(https://www.atelier-pianopia.com/) の小川瞳さんとNekota Hinazo-さんである(どうもありがとうございました)。この方たちの仕事ぶりを拝見すると、楽器の技術者には確かな職人芸と知識に加えてある種の想像力と創造力が必要なことがよくわかる。

2025年12月11日木曜日

モーツァルトのピアノ・ソナタで気になっていた箇所

  モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番変ロ長調K570の第1楽章で昔からずっと気になっていた箇所がある。というのも、楽譜によって音が異なるからだ。

まず、次にあげる音源の3’03”頃の部分、動画中の楽譜でいえば2段目の第4小節、右手第3拍目からのB-A-Gという動き(以下、「①」と呼ぶ)に注目されたい(https://www.youtube.com/watch?v=6wiQE4LS9No&list=RD6wiQE4LS9No&start_radio=1)。まあ、ごく自然な順次進行であり、他声部とも協和している。『新モーツァルト全集』を含む多くの版ではこのように記されており、私が少年時代にこの曲を練習した楽譜も同様だった。

 ところが、これとは異なる音が記された版もある。日本でも広く用いられている「ウィーン原典版」、あるいはアルフレート・カゼッラが編集したRicordi版がそうなのだが、そこでは件の①中のBAとなっている、つまり、同音連打を含むA-A-Gという動き(以下、「」と呼ぶ)になっているのだ。今日、そのように弾いているものを探したところ、内田光子の演奏がそうだった(https://www.youtube.com/watch?v=-335tMRWRwM&list=RD-335tMRWRwM&start_radio=12’39”あたりを聴かれたい)。以前、この件を楽譜ではじめて見たとき、正直なところ驚いた。どこか不自然に感じられたからだ。そして、その感じはごく最近まで残り続けていたのである。

 ところが、あるとき、②の意味がわかったような気がした。つまり、これは続く小節にあるB- B-Aという動きに対応するものであり、いわば「こだま」のような面白い効果をもたらしているのだ、と(そのことは先にあげた内田の演奏を聴けばいくらかおわかりいただけよう「いくらか」というのは、この「こだま」をもう少しはっきりさせた方がよいと思われるからだ)。

 ちなみに、①は初版譜、②は欠落部分のある自筆譜に由来するものである(先にあげた箇所は実はその「欠落部分」に含まれるのだが、それに対応する再現部に箇所は自筆譜があるので、それに基づいて復元されている)。が、そのどちらか一方が正しくて他方が誤っているとする決め手はないようなので、演奏者が自分で選択するしかあるまい。そして、以前の自分なら迷っただろうが、今は躊躇することなく②を採りたい(が、だからといって①による演奏を拒みたくはない)。

2025年12月6日土曜日

兵(つわもの)どもが夢の跡

  川崎弘二『NHKの電子音楽』を読了。とにかくすばらしい本だった。大長編であり図書館の返却期限もあるので今回はざっと目を通すに留まったが、いずれきちんと再読したい(そのためには改めて図書館から借りてこなければならないが……)。

 それはそれとして、同書で描かれた「一九二五年の放送開始から約七十五年にわたって、放送局を舞台に実践されてきた『電子音楽』というメディア・パフォーマンス」(同書、1282頁)の栄枯盛衰の物語を読み終えてすぐに想起されたのが「兵(つわもの)どもが夢の跡」という名句中の文言だ。それとともに、1980年代に「NHKの電子音楽」をリアルタイムで聴き、過去のいろいろな作品にも触れた者として、さまざまな想いが胸に去来する。

2025年12月2日火曜日

備忘録

  先日1130日に、とても面白い体験をした。大阪の国立国際美術館で催されたワークショップでのことである(参加者は事前申込者の中から抽選で選ばれたのだが、私は運良くその中に入ることができた)。それは「現代美術の香りをかぐ」と題されたもので、事前に告知された案内は次のとおり(https://www.nmao.go.jp/events/event/miruplus_20251130/):

 

「見る」だけでなく、身体のさまざまな感覚を使って現代美術を楽しむプログラム「みる+(プラス)」。今回は、香りのワークショップを展開する岩﨑陽子氏と松本泰章氏を招き、「嗅覚」に焦点を当てて開催します。プログラムでは、開催中の「コレクション2」の展示作品を鑑賞し、その体験からイメージしたことがらを、香りで表現します。作品の印象やイメージした香りについておしゃべりをしながら日曜午後のひと時をお楽しみください。

 

これを見て、「なかなか面白そうだな」と期待していたのだが、それを遙かに超える面白さだった。

 具体的な内容と感想を以下に述べるべきなのだが、今はあれこれ忙しくてその心の余裕がない。が、この件についてはいずれ機会を改め、あれこれ考えたことを加味して書いてみたい(今回は「備忘録」として、このようなものがあったということだけを記した)。