作詞家・小説家のなかにし礼(1938-2020)はベートーヴェンの第9終楽章「歓喜の歌」の訳詞を手がけているが、その序文で次のように述べている(ということを、今読んでいる渡辺裕先生の本で遅ればせながら知った)。とても味わい深いものなので、長くなるが孫引きしよう:
日本語で歌うと音楽の純度がさがるという。ということは言語で歌えば純度がさがらないということらしいが、なあにさがらないと思っているのは本人だけで、日本人がドイツ語を発音した瞬間にドイツ語はこわれているのである。どうせこわれるなら、無茶苦茶にこわして、自分の血とし肉とし、そのあとで何かを作り出せばよさそうなものなのにそれをしない。いつからか日本人はそんな風になった。むかしはそうではなかった。浅草オペラ時代のあの出鱈目さ加減と、あのエネルギーを思いおこせばわかることなのだが、あれは大衆芸能の話で、純音楽には関係ないと済まし顔でいう。しかし誰が何と言おうと、あの浅草オペラ時代が、日本が最高に西洋音楽を吸収した時期であったことに間違いはない。そのエネルギーの源はなんであったのかと言うと、当然のことながら言葉なのだ。日本語という言葉なのだ。
音楽の純度という目くらましに目がくらんで、言葉をないがしろにしはじめて、日本のクラシック音楽は活力を失った。オペラ、オペレッタ、歌曲。会場は限られたファンや専門家の溜り場であって、一般大衆は入りたいとも思わない場所になった(なかにし礼・詩『歓喜の歌日本語版―ベートーヴェン作曲「交響曲」第九番合唱終曲』、ハンナ、2018年)。
「ファンや専門家/一般大衆」という線引きの仕方には些か異論がないではないが、ここで述べられていることは概ねはその通りだと私も思う(し、私自身、近年は演奏会場の雰囲気に気圧されて次第に足が遠のいている)。
私は以前、このブログでシューベルトの《冬の旅》の歌詞を松本隆が訳したものを話題にした(https://kenmusica.blogspot.com/2020/03/blog-post_10.html)が、オペラなどについても昔のようにどんどん訳詞でやればよいと思っている(私自身、学部学生時代に歌の教授が主催する会による日本語上演に合唱隊の一員として参加したことがあるが、とても楽しかった:https://kenmusica.blogspot.com/2021/08/blog-post_8.html)。もちろん、そのことにより原曲の何かが失われるのは確かだが、なかにしが言うように原語でやったところで「こわれている」のだから、「無茶苦茶にこわして、自分の血とし肉とし、そのあとで何かを作り出せばよ」いわけだ。原語上演が悪いというわけではないし、それはそれでけっこうなことだとは想う。が、「それしかない!」という原理主義は「日本のクラシック音楽」の「活力」をなおいっそう削ぐことになるに違いない。