昔は外国語の歌を日本語訳で歌うことはごく普通のことだった。が、いつしかその「伝統」は次第に廃れていった(これは面白い研究の主題だと思う。誰かやってくれないかなあ)。今や普通の演奏会で訳詞による歌唱がなされることはあまりないのではないか。
もちろん、種々の外国語と日本語の発音体系は大きく異なっているので、訳詞を用いると少なからず音楽のありようが変わってしまうということはある。が、だからといって、「訳詞による歌唱など、所詮、紛い物だ」というふうに切って捨てるのもどうかと思う。むしろ、違いを認めた上で訳詞による歌唱の新たな可能性を探ってみればよいのではないだろうか。
私がそう思ったのは、最近、たまたま手にしたある訳詞を見てのことだ。それはシューベルトの《冬の旅》で、訳詞を手がけたのはポップス界の巨匠、松本隆(1949-)。たとえば、第1曲の出だしはこうなっている――「ときをよこぎーる たびびとーにーは ごがつのはなーは やさしすーぎーた」(シューベルト《冬の旅》(編集・校訂・大島博、日本語訳詞・松本隆)、全音楽譜出版社、2017年)。この部分の原詩は'Fremd bin ich ein-ge-zo-gen, fremd zieh' ich wie-der aus. Der Mai war mir ge-wo-gen mit man-chem Blu-men-strauss')で、「よそ者として来た私は、よそ者としてまたここを去る。五月は迎えてくれた、色とりどりの花束で」(大島博・訳)という意味である。この部分に限らず、松本の訳は原詩の意味を大まかにとらえつつ、日本語としてうまく歌えるように実に巧みにつくられている。「《冬の旅》を自分も歌ってみたいけれど、ドイツ語はちょっと……」と思う人はもちろん、多少はドイツ語のことは知っている人でも十分に楽しんで歌える訳詞ではなかろうか。
日本人がいくら原語で歌ったとしても、よほど意識的に訓練して努力を持続しない限り、よくて日本語訛り、悪くするとカタカナ発音に留まることが少なくない(事実、ある(少なくともアマチュアではない)ボーカル・アンサンブルが歌うフランス語の歌の録音を聴いたフランス語話者が「発音が全然ダメですね」と(日本語で)評する場面に私は出くわしたことがある)。また、聴く方についても原詩をよどみなく聞き取って理解できる人などそれほど多くはない(さもなくば、オペラ上演で字幕が電光掲示板で示されるはずもない)。となると、そんな日本人が日本語の訳詞を個人の趣味で嫌うのはともかく、全否定するのは些かおかしな話であろう(なお、私は日本人の西洋音楽における「日本語訛り」を否定的にとらえるつもりはない。それは受け入れざるを得ない「現実」であって、その認識の上でこそ実り豊かな実践が可能になると考えている)。
かつて洋楽受容黎明期には訳詞というものは西洋音楽を手っ取り早くものにするための「方便」のようなところがあったかもしれない。が、今はそうした時期とはまた違った観点から訳詞のありようを探り、あれこれ試してみる余地があると私は思う。