2020年3月28日土曜日

検証不能

 たとえば文芸批評であれば、その対象になった作品に読者は概ね容易に触れることができて、批評の当否を各人が自分なりに確かめることができる。美術批評の場合は作品へのアクセスがもう少し面倒かもしれないが、それでも不可能ではない。
 ところが、演奏会の場合はそれとは大いに事情が異なる。一回きりでその場でしか聴けないものがほとんどなので、批評家が何を書こうがそれを検証する術がないのだ(中には録音を聴けるものがあるにしても、それは少数派でしかなかろう)。
 にもかかわらず、昔はそうした演奏批評が割と額面通りに素直に受け止められていたようである。というのも、かつては公の場で批評を発表できる人は限られていたし、種々の情報へのアクセスもそうした人たちは恵まれており、批評家にも何かしら社会的な権威があったからだ。が、今やそうではない(その一因はインターネットにあろう。すなわち、それによって誰でも簡単に情報発信や情報へのアクセスができるからだ)。すると、今や演奏会評はどのように読まれているのだろうか(もし、読まれているのならば……)。
 
 かく言う私も10年くらい、生活のために新聞の地方版に演奏会評を書いていた時期がある。字数がごく限られている上に「専門用語は使用不可。抽象的な表現はダメ。中学生にもわかる文章で!」といった縛りがあり、なかなかにたいへんだったが、自分なりに最善を尽くした(つまり、それなりに楽しく読んでもらえるような文章を書いた)つもりだ。そして、その中でいろいろと勉強できたし、何よりも貧乏な自分には到底行けないような演奏会をあれこれ聴けたのはありがたかった。もはやそうしたかたちで演奏会評を書く気力は全くない(し、そもそも頼まれもしないだろう)が、違ったかたちでいずれ何か評論を少しだけ書いてみたい気もする。

 ドイツ在住の弟から再びメールが届いた。向こうはなかなかたいへんなようだ。が、その弟の目には今の日本もかなり危なっかしく見えるようだ。いや、ごもっとも。とにかく、まずは自分の身は自分で守るしかあるまい。