さて、そのアイヴズの「引用」でしばしば用いられるのが彼の母国たる米国で親しまれていた賛美歌、民謡、フォスターの歌曲、等々である。それゆえ、アイヴズの作品を聴けば、種々の引用の元ネタは大方の米国人にはすぐにわかるものであり、そこに(プラスとマイナスの両面で)何らかの思いを生じさせるものであったろう。逆に、米国人以外の者にとっては、そうした引用はたんなる異物か特殊効果くらいにしか聞こえない可能性が高い。
ところが、私が少年時代にそうしたアイヴズの引用を初めて聴いたときには、いくつかの賛美歌はともかく、他の引用についてはかなりのところ元ネタがわかるか、さもなくば、旋律に聞き覚えがあった。これは何も私だけに限ったことではあるまい。たぶん、少なからぬ人たちがアイヴズ作品の引用に同様な感じを持つはずだ。
考えてみればこれは面白いことである。なぜ、少なからぬ日本人に米国の賛美歌、民謡、フォスターなどの旋律がそれとわかるのか? それは、日本人が学校教育やその他の場で米国の音楽をいつの間にかすり込まれていたからだろう。他方、多くの米国人が日本のそうした音楽をこれほど知っていることはまずありそうもない。つまり、関係が非対称なのだ。
そして、こうした非対称性は音楽に限ったことではなさそうだ。他のいろいろな点でも日本は諸外国のことはあれこれ知っているのに、こちらのことは向こうにはあまり知られていないということがある。そして、これは多分に「知らせていない」ということによるところがあろう。これはどうも日本の体質のようなもので、そのために少なからぬ損をしているように思われる(外交下手を初めとして)。そして、いくら英語を小学校の必修教科にして英語力の向上を図ったとしても、肝心のエートスを改めなければ、いつまでも外国のとの関係の非対称性は変わらないままなのではないか。