2020年3月9日月曜日

「フロイデ シェーナー」

 昨日話題にした第九の歌詞はドイツ語だが、現代の実際の会話の中「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン トホテル」(発音記号は煩雑なので、カタカナでご寛恕のほどを)などといった発音はしないことはドイツ語を少しでも学んだことがある人ならばご存じだろう(やはり敢えてカタカナ書きすれば「フロイデ シェーナー ゲッターフンケン トホター」となる)。
 にもかかわらず、なぜ「フロイデ シェーネル」と発音されているのはなぜかといえば、そうした様式がかつて確立されていたからだ。ドイツの言語学者Theodor Siebs1862-1941)は1898年初版の著作Deutsche Bühnenaussprache – Hochsprache(ドイツ語舞台発音――標準語)で舞台芸能、つまり、演劇や歌劇、歌曲などのための発音の原則を簡潔にまとめており、それがいまだにこの極東の国でも影響を及ぼし続けているのだ。
 私なども学生時代に歌のレッスンを受けていたときには、まさに「フロイデ シェーネル」式に(カタカナっぽいところも含めて)習ったものである。が、語学の授業で教えられた発音は「フロイデ シェーナー」だった。なので、「なるほど、音楽の世界ではこうなのか」と勝手に納得していたものである。
が、その頃作曲・音楽理論を教わっていた松本清先生(松本民之助――坂本龍一の師――の子息。先生の兄は作曲家の松本日之春)はそうしたズィープス流のドイツ語発音で学生が歌っているのを聴き、「今時、ドイツじゃあんな発音はしないよ。そう○○教授にも言ったんだけど……」とぼやいていた。松本先生はヴィーンとケルンで学んだ人なので、当然、現地での発音の流儀を知っていたのである。
事実、たとえばディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925-2012)がアルフレート・ブレンデルと行った《冬の旅》の録音(1985年)を聴くと、derは「デル」ではなく「デア」と、Mutterは「ムッテル」ではなく「ムッター」と現代の口語の流儀で発音している(ちなみに、先日、あるところで日本人の声楽専攻の学生が歌うリヒャルト・シュトラウスを聴いたが、これも同様だった)。
ところが、そのディースカウより随分年下の(私と同世代の)マティアス・ゲルネ(1967-)がやはりブレンデルと行った同曲の録音(2003年)を聴くと、こちらは「舞台発音」で歌っているのだ。これはどうしたことだろう。たぶん、次のような理屈ではなかろうか――①言葉は生き物であり、時とともにどんどん語彙だけではなく発音も変わっていく。②そうなると当然、今では古い作品が生まれた頃の発音と現代の発音の間にはあれこれ違いがある。③ならば、作品にふさわしいのは現代の発音ではなく、当時の発音(に近いもの)だ――。
とはいえ、もしそのように考えると、実のところ収拾がつかなくなる恐れがある。まず、先にも述べたようにズィープスの『舞台発音』が出たのは1898年で、シューベルトの没後70年後のことであり、これは発音が変わるのに十分な長さである。また、ズィープスは特定の地方の発音をモデルに発音の規範をまとめており、その結果、広くさまざまに発音されていた実際のドイツ語と合わないところがいろいろあった(たとえば、次のものを参照:https://deacademic.com/dic.nsf/dewiki/321861/Deutsche_Aussprache_(Siebs))。となると、「シューベルトの歌曲に本当にふさわしい発音」などといっても、その真の姿を見極めるのは限りなく難しいことになろう。現にさまざまな流儀が併存しているわけで、そこが面白いのだと(あくまでも一人の聴き手として)私などは考えるが、どうだろうか。