2020年3月7日土曜日

読んでもわけがわからない

 小林秀雄(1902-83)は多くの愛読者を持つ(持った)評論家である。最近もご近所図書館(例のウィルス騒動で現在長期休館中!)で適菜収『小林秀雄の警告――近代はなぜ暴走したのか?』(講談社α新書、2018年)という書が目にとまり、小林の影響力の大きさを再確認した次第。
 ところが、私はこの小林が大の苦手。彼の文章を面白いと思ったことが一度もない。いや、それ以前に、読んでもわけがわからない(あの「モオツァルト」を筆頭に)。もちろん、世の中には難解な文章というのはある。が、その中には「その難解さを我慢してでも読み続けたい」文章もあれば、「わざわざ我慢して読むまでもない」文章もある。そして、私にとって小林の文章は断然後者に属するものだった。
 なので、あるとき、次の本を見つけたときはすぐ手に取った。鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞版、2016年)がそれだ。同書はまさに小林の文章の「わからなさの理由」を具体例の分析とともにまことに明快に論じており、私の積年のモヤモヤを一気に晴らしてくれたのである。鹿島は言う。「小林秀雄の文章というのは、これを文章構成の観点から見ると、証明の過程を欠いた断定の連続で、論理的にも飛躍が多く、評論というよりも、むしろ長めのマクシム(箴言)と呼んだほうがよい」(前掲書、33頁)と。のみならず、こう続ける。「いや、長めのマクシムとて論理性は不可欠なのだから、正確には、非論理的な言説のところどころにドスの利いた殺し文句が挿入されたものにすぎないと言うべきだろう」(同)と(いや、ごもっとも。よくぞ言ってくれました)。
 ただ、これはあくまでも小林を苦手とする人の見方である。小林の文章を愛し、そこから影響を受けている人にとっては、また違ったものの見方があろう。それゆえ、小林愛好者に対して「よくもまあ、あんな訳のわからないものを喜んで読むなあ!」などとは私は言わないし、言うべきでもないと思っている。人の好みはそれぞれだから。そして、だからこそ逆に「あの素晴らしさがわからないのか!」などとは言われたくない。

 ところで、吉本隆明(1924-2012)の文章なども私にとっては「わけがわからないし、わかりたくもない」部類に入る。とにかく、読み続けることができないのだ。だから、田川建三『思想の危険について 吉本隆明のたどった軌跡』(インパクト出版会、新装版2004年)や呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、2012年)などを読んだときは、先の小林の場合の鹿島本と同様、モヤモヤが一掃され、気分爽快になった。もちろん、吉本愛好者に対してどうこう言うつもりはない。吉本の著作から何かを得て、自分の活力にできているのであれば、それはけっこうなことだと思う。先の鹿島茂も吉本を讃美する本をものしており、「小林をあんなふうに叩いた人が、なぜ、難解極まりない言説を振りまいた吉本を讃美するのか?」と不思議に思うが、それはあくまでも私個人の感じ方にすぎない。そして、そんな私でも、吉本の言葉に(小林の言葉と同様)少なからぬ(?)人を引きつける力があったということは認めざるを得ず、その意味では吉本はやはりタダ者ではないとは思う。