Baerenreiter社から出ているJonathan Del Mar校訂のベートーヴェンのピアノ・ソナタはなかなかに「攻め」の原典版である。資料をあれこれ比較検討するだけではなく、編者なりの積極的な「読み」を示しているのだ。
たとえば、作品2の2第1楽章第204小節ではたいていの「原典版」が基本資料の(自筆譜が紛失しているので)初版に基づいて右手の高音をg#-g#-g#-g#としているのに対して、デル・マーはこれをg#-a-b-g#だとしている。この音型を含む同じパタンが数小節後に出てくるからだけではなく、「ベートーヴェンは初期のソナタではほぼいつも、同じフレーズをわずかだが理に適った仕方で手を加えて繰り返している」(同作品のマーによる註釈)からだ。
あるいは、作品106第1楽章第224-6小節でたいていの版がa#だとしている音をデル・マーは和声進行とベートーヴェンの記譜上の習慣を根拠にa♮だとしている。しかも、先の作品2-1の場合には件の音は括弧の中(それでも、脚註ではなく楽譜テクスト)に記されていたのに対して、この作品106ではその括弧さえない。
もちろん、こうした「読み」に対してはあれこれ異論はあろうし、それを鵜呑みにすればよいというものでもない。だが、「確実な典拠が示せないものについては採用しない」種々の原典版が及び腰になっている点にあれこれ踏み込んでいるデル・マー版は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに向き合おうとする者にとっては大いに参考となろう。私もまだごく一部のソナタしか確認していないので、これから見てみるのが楽しみだ。
Baerenreiter社の好敵手Henle社でも近年、ソナタの新版を逐次刊行中だったが、両者を見比べてみると面白いだろう。たとえば、ここで例に挙げた箇所などどうなっているだろうか(作品2については刊行済みだが私は未見。また、作品106はまだ未刊)。
なお、ベーレンライター社はまず作品番号毎に分冊で刊行したのち、全曲を3巻にまとめた合本を出したが、後者には肝心の註釈が省かれているので、それに興味のある人は必要に応じて前者を見るとよかろう。他方、ヘンレ社はまだ個別のソナタの楽譜をすべて刊行していないが、3巻の合本が遠からず出るとのこと(第2巻のみすでに刊行済み)。こちらの合本には註釈は収められているのだろうか(第2巻を見ればわかることだが、まだ未見)。気になるところだ。