2020年3月17日火曜日

どうしてもベル・カントでなければいけないのだろうか?

 西洋音楽の歌唱法は当然、当地の言葉に合うようになっている。それを全く発音体系が異なる日本語に持ってきてもおかしなことになるのは必定。
 ところが、日本歌曲の唱法はその西洋音楽の歌唱法、すなわち、「ベル・カント」と土台にしている。この分野の草分け的歌手で多大な足跡を残した四家文子(1906-81)の著書『日本歌曲のうたい方』(音楽之友社、1973年)を見ても、あるいは、もっと下の世代の歌手でやはり日本歌曲に心血を注いでいた大賀寛(1929-17)の労作『美しい日本語を歌う』(カワイ出版、2003年)を見ても、日本歌曲の歌唱の基本はベル・カントだとされている。そして、事実、今現在の歌手が歌う日本歌曲を聴いてみても、確かにベル・カントに拠っている。
 だが、聴き手としてはベル・カントで朗々と日本語を歌われると、どうにももやもやがぬぐいきれない。どこか不自然なのだ(だから、以前、《千の風になって》が大ヒットしたとき、それをオペラ歌手がベル・カントで朗々と歌ったものが――実にきちんとした立派な歌唱であったにもかかわらず――モノマネで茶化されたりもしたわけだ)。もちろん、それには日本語に合っていない曲づけのせいもあろう。が、やはりベル・カントに問題があるように思われてならない。どうしてもベル・カントでなければいけないのだろうか?
 たぶん、こう感じているのは私だけではあるまい。そして、何か別の試みをしている歌い手もいるのではないか。もし、そうならばその歌を聴いてみたい。また、そうした試みにどんどん挑戦してもらいたいとも思う。