2020年3月31日火曜日

日本語で有節歌曲は可能なのか?

 日本語はご存じの通り「高低アクセント」の言葉である。そして、同音異義の語が多いとあっては、この「高低」の違いは徒や疎かにはできない。アクセントを間違えると、まるで違った意味になってしまうからだ。
 もちろん、そうはいっても多少アクセントが違ったとしても文脈から語の判断はつく。「茶碗とはし」というように語が並べば、間違ったアクセント発音されたとしても、その語が「橋」でも「端」でもなく「箸」だということはすぐにわかる。とはいえ、あまりにアクセントが異なると聞き苦しいのは確かだ。
 すると、次のような疑問が浮かぶ。つまり、「日本語で有節歌曲は可能なのか?」と。「有節歌曲」とは節は同じものが繰り返され、歌詞だけが変わるものである(歌で「1番、2番……」とか「1題め、2題め……」とかいうのがまさにこれだ)。そして、作曲家が旋律を書く際に1番の歌詞で考えるのが普通だろうが、そのアクセントと2番以降の歌詞のアクセントが全く同じだということはまずなかろう。そうなると、当然、言葉のアクセントに旋律が合わない箇所がいろいろ出てくることになる(たとえば、山田耕筰の名曲《赤とんぼ》の歌詞でこのことをご確認いただきたい)。
 こうした齟齬を避ける手はないではない。先に旋律をつくってから、それに合う歌詞をつくるというやり方がそれだ。が、これはよほど優れた詩のセンスを持つ作曲家が自分で歌詞を書くか、さもなくば、作曲家に詩人が極めて協力を惜しまないということがないと成立しない。が、普通、歌曲が書かれるのは、作曲家が既存の優れた詩に感銘を受けて何かしら創作意欲をかき立てられたときである。「曲先」というのは無理ではないが、そうやって本当の意味でのよい歌曲に仕上げるのはなかなか難しかろう。
 さて、実際のところ、これまでに日本語で書かれた有節歌曲の実態やいかに? ちょっと興味がもたれるところだ(すでにそうした研究はあるのかもしれないが。だとしたら、読んでみたい)。