2020年3月29日日曜日

ピーター・サーキンが亡くなっていたとは……

 ピアニストのピーター・サーキンが亡くなっていたとは知らなかった。今年の2月のことだとか。私は必ずしも彼の熱心な聴き手ではなかったが、気になる人ではあった。ともあれ、ご冥福をお祈りする。
 サーキンの演奏を(もちろん録音で)初めて聴いたのは、武満徹の《カトレーン》の演奏者としてだった。が、これは管弦楽+アンサンブルの中の1人だから、「サーキンの演奏を聴いた」という言い方は正しくあるまい。が、そのとき、彼の名は私の頭に刻まれたのである。それから数年後、ラジオでそのサーキンがJ. S. バッハの《ゴルトベルク変奏曲》やベートーヴェンの後期ソナタを弾いていたのを聴き、明晰に作品の組み立てを描き出しつつもどこか遊びもある演奏ぶりに魅せられた(そのときの放送はエアチェックしており、折に触れ聴いて楽しんだ)。
 その後もあれこれ聴いてはいたが、近年はほとんどご無沙汰していた。直近で聴いた録音は父のルドルフ・ゼルキンと共演したモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲で、このときピーターは15歳! それにしても偉大な父と同業者だというのは子にとって相当大きなプレッシャーだったろう。もし、子が自立した存在であろうとするならば……。だが、ピーターは見事にそのプレッシャーに打ち勝ち、独自の活動を繰り広げるのに成功した。

 もっとも、この年になると「あれもこれも」というわけにはいかなくなり、どうしても「あれかこれか」と煩悶することが増えてくる。昔ならばある程度体系的に「お勉強」するつもりであれこれ読み、聴いていたが、今や直感で選ぶしかない。が、面白いことにそうして適当に選んだつもりでも、後から振り返ってみると何かしらうまい具合に繋がりを持っていることが少なくない。不思議なものだ。

 翻訳が終わったら、読みたい本や楽譜、聴きたい音楽が山のようにたまっている。その中でも優先順位が高いものの1つに米国の哲学者、ニコラス・ウォルターストーフの『芸術再考――芸術の社会的実践』(オックスフォード大学出版局)がある。著者はキリスト教哲学の大家だそうだが、その論は非キリスト教徒の私にとってもいろいろと参考になるところが多そうだ(それにしても、このウォルターストーフの明快簡潔な文章を読むと、今私をとことん苦しめているチャールズ・ローゼンの文章の難解さが必ずしも自分の語学力の低さだけのためではないのだと、慰められる)