2026年8月7日金曜日

文楽『まちの灯』に感動

  昨晩はBunraku Summer Festival https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)を観に国立文楽劇場へ。演目がチャップリンの名作『街の灯』を翻案した『まちの灯』とあらば見逃すわけにはいかない。そして、これはやはり「大当たり」だった。

 思えば原作の名画を観たのは40年以上前のこと。当時はNHKで昔の映画がしばしば取り上げられており、それでチャップリンの作品や『カサブランカ』『第三の男』その他の往年の名画を知り、楽しむことができたわけである。その中でも『街の灯』は感動的な一本として心に残っていた。その名画を文楽に翻案するとどうなるのか――この点に好奇心はあっても、不安は全くなかった。事実、仕上がりはまことに自然であり、文楽として大いに楽しみ、感動できたのである。

 文楽ゆえに舞台は日本の大阪、登場人物も日本名であり、物語はごく自然に進んでいく。土台は喜劇なので随所で大いに笑わせてもらったし、最後にはじんとくるものがあった。主役の与次郎(!)の人形遣いは桐竹勘十郎だったが、今回、改めてそのすばらしい芸に魅了される。とりわけ大詰めでの微妙かつ繊細な(静止も含めての)動きからは微塵も目を離せなかった(その場面でのヒロインお花の人形遣い吉田勘彌もすばらしかった)。また、五段目から大詰にかけての太夫は豊竹若太夫だったが、これがまた実に見事(客席からは当然のように「待ってました!」の掛け声が……)。最初の第一声で観客を物語の世界へぐっと引き込んでしまい、最後までとらえて放さないのだ(この人ならば、原作の『街の灯』で弁士を見事に務めることだろう)。

 では、「音楽」はどうだったか。この『まちの灯』が翻案ものの新作である以上、音楽(もちろん、太夫の伴奏も含まれる)は新たに書かれねばならなかったわけだが、今回それを担当し、自らも五段目から大詰にかけて出演した鶴澤友之助はこう述べている:

 

文楽がお好きなお客様も、チャップリンがお好きなお客様にも楽しんでいただきたいので、それを意識しました。オリジナルの映画の音楽も匂わすような旋律は少し入れておりますが、基本的には完全に古典の義太夫節です。奇抜ではなく斬新であるように、義太夫節の中に自然に溶け込むように一生懸命考えて作曲させていただきました(https://www.ntj.jac.go.jp/topics/bunraku/2026/bunrakusummerfestival/)。

 

「古典の義太夫節」のなんたるかをまだつかんではいない私に本当の意味で事の成否の判別がつくわけではないが、聴き手としてはその音楽には心から魅せられた。時折、いかにも文楽らしい音楽の中に時折西洋音楽的な要素が入ってくるのだが、それが少しも浮いてはおらず、そのとき舞台で演じられ、そして、語られている事柄にうまく合っているように感じられた。いや、お見事。

 というわけで、とにかくまことに面白く、楽しく、感動的な舞台であった。こうした新作はこれからも機会があれば観てみたいものである。もちろん、古典の演目も。10月には『本朝廿四孝』を観に行くことになっているので、今から楽しみではならない。

2026年8月4日火曜日

メモ(161)

  1週間ほど前にドビュッシーの音楽における「旋律性と音響性の重なり」ということを話題にしたが、このことはいろいろな問題に展開できるだろう。

20世紀後半の「現代音楽」の作曲家の多くはおそらく、ドビュッシーからもっぱら「音響性」の面を学びとり、それが旋律性と二重性を成すことはあまり眼中になかったように思われる(その点、武満徹は少数の例外的存在かもしれない。が、その彼も80年代以降の作品では逆に旋律性が音響性をほとんど覆い隠し、音楽のありようが平板になってしまった)。そのため、彼らの作品には「音響」面での魅力はあるものの、それ以上の「深み」や「広がり」があまり感じられない。たぶん、そうした作品はいずれ忘れ去られることになるのではなかろうか(まあ、遠い将来、発掘される可能性を持つ「名曲」もあるが)。

その点、ご本尊のドビュッシーの作品は時代の移り変わりを経ても、さまざまな「聴かれ方」をされ、末永く生き残ることだろう。そして、その意味で彼の音楽からはまだまだいろいろなことが学べるはずだ。

2026年8月3日月曜日

ハンス・アイスラーの管弦楽曲を楽しく聴く

  ハンス・アイスラー(1898-1962)の管弦楽曲を手持ちのCD(今や生産中止のまことに便利な10枚組)で久しぶりに聴いてみたが、まことに面白い。とにかく「聴かせる」音楽に仕上がっており、その見事な職人芸に打たれる(たとえば、次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=xErSSMF8ruw&list=RDxErSSMF8ruw&start_radio=1)。彼はシェーンベルクの弟子で、「新ヴィーン楽派第4の男」とも言われる人だが、果たして現在、彼の作品がどの程度受容されているのだろうか。

 試しにHMVのショップで調べてみると、CD20点しかない。だが、同門のヴェーバーンの場合はもっと少ない(さすがにもう少しポピュラーなベルクではDVDなども含めて51点あった)。となると、アイスラーだけが冷遇されているわけでもなさそうだ。

 演奏会ではどうなのだろうか。ちなみに、私はヴェーバーン作品は何度か実演で聴いたことがあるが、アイスラー作品は一度もないし、近場の演奏会で取り上げられた例も知らない。もちろん、欧米ではもっと演奏の機会があるだろうが(Wikipediaの日本語版とは異なり、ドイツ語版での「ハンス・アイスラー」の項はまことに充実している)、それほど人気があるわけでもなかろう。

 アイスラーの作風は元々先鋭的なものだったのだが、やがて社会主義に共鳴して(師匠シェーンベルクなどに比べれば)「わかりやすい」ものに転じた。だが、その中身は(私が聴く限りでは)しっかりしており、決して権力や大衆に迎合しているわけではない。それゆえ、「前衛」時代の作品も含めて、もっと演奏されてもよいような気がする(ちなみに、楽譜についてはBreitkopf全集が刊行中)。私の場合、器楽曲の方に興味があるのだが、彼の3曲のピアノ・ソナタを取り上げる演奏会があれば、迷わずに聴きにいくだろう。

 

2026年8月1日土曜日

演奏と演技の違い?

  西洋音楽の「作品」を演奏するとき、演奏者はそれを己の身に引き受けつつも、同時にいくらか突き放している――つまり、自分が現に行っていることを醒めた目(耳)でとらえ、フィードバックを行っている(たとえばブゾーニは何かが憑依したような演奏をしているにもかかわらず、「醒めた目」の必要性を説いている)。

では、役者はどうなのだろう? 彼らは自分の役柄を舞台の上で「生き」ているわけだが、やはり同時に「醒めた目」で己の演技を見ているのだろうか? 私は演劇には暗いので知らないが、何かそうしたことを説いたものがあれば読んでみたい。

 

 新しい(中古)ピアノが我が家に来てほぼ1週間。これからゆっくり時間をかけて楽器を自分に合うように弾きこんでいくとともに、自分の身体を楽器に合わせていくことになる。果たして1年後にそこから産み出される音はどう変わっているだろうか。

2026年7月30日木曜日

Me too.

  今日、妻が述べた言葉――「地震が心配で心ざわつきますが、自分が幸いにも日常の暮らしを営むことが出来るならばそれぞれに精一杯仕事をこなし、あとは黙ってどこかで支援をする。それに尽きるのではないだろうかと過ごしています」。私もそう思う。

2026年7月29日水曜日

珍しくも二晩続けて

  とことん出不精の私だが、珍しくも二晩続けてお出かけを。

 

 昨晩は夫婦で「阪大コレギウム・ムジクム「楽器再発見」映画上映&ワークショップ」(https://musicologyosaka.wordpress.com/2026/07/17/%e3%80%90%e7%ac%ac26%e5%9b%9e-%e9%98%aa%e5%a4%a7%e3%82%b3%e3%83%ac%e3%82%ae%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%82%b8%e3%82%af%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%a5%bd%e5%99%a8%e5%86%8d%e7%99%ba%e8%a6%8b/)。今回の司会者が旧知の森本恵一さんであり、そこで取り上げられた楽器にも興味があったし、このところ拙宅の楽器についていろいろお世話になっているPIANOPIAの小川瞳さんも出演するとなれば出かけないという手はない。映画はすでに昨年に観ているのでワークショップのみ参加したが、とても楽しかった。小レクチャーも充実していたし、いろいろと楽器に触れられたのもよかった。旧知の方何人かとお話もできたし。ともあれ、企画・運営に関わった方々に心から御礼申し上げたい。

なお、この「阪大コレギウム・ムジクム」の存在はこれまで全く知らなかったのだが、何か面白そうな会のときにはまた参加してみたいものだ。好奇心一杯の音楽愛好者の方々にもお勧めしたい。

 

 今晩はザ・フェニックスホールで「フェニックス・エヴォリューション・シリーズ114

トリオ・エクス×ブラームス ~3つの第2番、円熟の響き~」(https://phoenixhall.jp/performance/2026/07/29/25093/)を聴いてきた。前から楽しみにしていたのだが、その期待は十分に満たされた。

 演奏会前半にはブラームスのチェロ・ソナタとヴァイオリン・ソナタの、そして、後半にはピアノ三重奏曲のそれぞれ「第2番」が取り上げられていたのだが、断然後半がすばらしかった。前半のソナタもなかなかよい演奏だったが、些かきれいにまとまりすぎているきらいがなくなかった。それに対して、三重奏曲では表現がもっと大胆かつ繊細なものとなっており、その説得力のある演奏にはその3人が一緒に演奏することの意義がまことにはっきりと示されているように感じられた。よい音楽を聴かせてもらい大満足である。演奏者と関係者の皆様、どうもありがとうございました。

2026年7月27日月曜日

ドビュッシーの音楽における旋律性と音響性の重なり

  ドビュッシーは自分の音楽が「旋律を廃止したもの」として賞賛されていることに驚き、それが「ただ旋律であろうとしてしかいない」と声を大にして異議を唱えたという。では、賞賛者たちはドビュッシーの音楽のありようを根本的に見誤ったのだろうか? そんなことはないと私は思う。なるほど、「旋律を廃止」というのは言い過ぎだったかもしれないが、そう受け取られても仕方のない面がそこにあったのは確かだろう。すなわち、彼の音楽は旋律を構成要素の一部として包含する「音響(サウンド)」としても聴かれたに違いない。

 おそらく、このことは次のように考えればよいのではなかろうか――①ドビュッシーの音楽は「旋律性」と「音響性」を重ね持っている。②両者の程度は作品によって、また、1つの作品の中でも場面によって異なっており、それが音楽に多彩さ、広がりと深みをもたらしている。③そして、そのことが作品の理解・解釈にかなりの幅の大きさを生み出している(すなわち、旋律性と音響性のどちらに注目するかによって作品の見え方(聞こえ方)が大きく異なってくる)――というふうにである。

2026年7月26日日曜日

いろいろ

  先日、ベートーヴェンの田園交響曲を聴いていたときのこと。第5楽章が始まってしばらくしてから急に「この主題はまあ、何と不思議な旋律であることか」と感じた。ほとんどが分散和音でできており、お世辞にも美しい旋律だとはいえない。が、その何とものびやかなさまに聴いているこちらの心身も自然と同調してしまうのだ。それはこの主題に限らず、この楽章全体がそうであるし、他の楽章も概してそうだ。ベートーヴェンというと堅固な構築性が取りざたされることが多いが、この田園交響曲のような「のびやかさ」や「大らかさ」を持つ作品も少なくない。そして、今の私はむしろそうした面でベートーヴェンを好ましく感じている。

 

 このところ、改めて「楽曲分析」とは何かを考えている。それは結局のところ「何をわかりたいか」に応じてさまざまなかたちを採る(採らざるを得ない)ものであり、何か1つの「基本的な」流儀なるものがあるわけではない。だから、仮に楽曲分析について概説書のようなものを書くとすれば、対象に応じて変わりうるさまざまな流儀を併記し、「こんなふうにもできるんですよ」という例をあれこれ示すことができるのみだろう。

 

 ‘Als ich mein neues Klavier bekam’――これはフリードリヒ・グルダがギムナジウムの4年生のときに書いた作文の題名。我が家でも今日、まさに同じことがあり、とてもうれしい。中古だがとてもよい状態のもので、これからピアノを弾くのがいっそう楽しくなりそうだ。ともあれ、家族や今回の件でご縁のあった方々に心から感謝を。

2026年7月24日金曜日

メモ(160)

  ジョン・ケィジがサティの《ソクラテス》に基づく《チープ・イミティション》を書いたのは、著作権の都合で前者の編曲をバレエに用いることができなかったからだ。が、だとすると、後者は前者の「編曲」だとはみなされなかったことになる(もし、みなされていたならば著作権料を支払わねばならなかっただろう)。まあ、それは当然と言えば当然のこと。両者の譜面(ふづら)は大きく異なっているからだ。

 では、ケィジの「偶然性」による作品の制作に用いられたアイディアを拝借したとすればどうか。この場合も、結果としてできあがる譜面が全くの別物になるはずである以上、「編曲」とはみなされまい。が、ケィジ作品のある種のものでは、楽譜によるアウトプットに負けず劣らず(場合によってはそれ以上に)元のアイディアが重要であり、作品のアイデンティティに関わっている。となると、そうした「拝借」はcopyrightは侵していないが、authors’ rightsは侵しているのだと考えることもできよう。もちろん、ケィジはそんなことには拘らなかっただろうが。


 今年の夏もとにかく暑い。すると、音楽どころではなくなってくる。が、逆にこんな季節だからこそ聴きたくなるものもある。ケィジの音楽もそうしたものの1つだ。 

2026年7月21日火曜日

中野慶理先生の演奏動画

  私が尊敬し、敬愛するピアニストである中野慶理先生からご自身のリサイタルの一部を収録した動画がアップされていることをお知らせいただいた(https://www.youtube.com/watch?v=x3zzREeodYY)。そこでさっそく拝聴したが、やはりすばらしい。選曲は硬軟取り混ぜたものだが、いずれもその作品にふさわしい表現がなされており、とにかく引き込まれてしまった。

 最初の草野次郎《「宵待草」の主題によるパラフレーズ》はご存じの名曲に基づくものだが、なかなかの難物だ。というのも、多彩で繊細かつ微妙な表現をピアノから引き出せる人が弾かないと、甘ったるくてだらだらした曲になってしまいかねないからである。が、もちろん、中野先生の手にかかればそんな心配はない。原曲の持つ魅力を巧みにパラフレーズした作曲者の技とそこから生まれた豊かな音楽を存分に味わわせてもらった。

 続くショパンの《幻想曲》もやはり難物である。これも真の意味での技術と音楽性を持たないピアニストの手にかかると見るも無惨な音楽(なんだか同じところをぐるぐる回っているような感じ)になってしまう作品だが、中野先生はこの作品の劇的なドラマを見事に聴かせきった。最後のカデンツの何と感動的だったことか。

 ベートーヴェンの〈ロンド ハ長調〉はピアノの初学者にとってはお馴染みの曲である。が、それだけにただなんとなく通過されがちでもったいない作品でもある。私はなぜかこの曲が大好きなので、今回聴けてとてもうれしかった。先生の演奏を聴きながら、なぜか’Sehnsucht(憧れ)という語が浮かび、最後までそれが頭から離れなかった。それはもしかしたら、子供の頃に自分が音楽に対して抱いた感情の記憶をこの演奏が呼び覚ましてくれたからかもしれない。

 締めくくりの2曲はアンコール演奏であろうか。久石譲の〈もののけ姫〉と〈人生のメリーゴーラウンド〉というお馴染みの映画音楽である。これがまたすばらしかった。もちろん楽曲自体の持つ魅力もある。が、それに加えてこうしたものを何の外連味もなくすっと弾いてみせる先生の技と音楽性の賜物でもあろう。

 ともあれ、抜粋とはいえ、実にすばらしい、そして、素敵な演奏だった。こうしたものを聴くと、今度は久しぶりに演奏会場で中野先生の演奏に接したいものだと強く思う。さて、そのときはどんな作品が取り上げられ、どのような演奏がなされるだろうか。楽しみにその機会を待つことにしたい。

2026年7月18日土曜日

メモ(159)

  管弦楽曲の創作における「管弦楽法」に相当するものを優れたピアノ曲の作曲家は十分に心得ていることだろう。この楽器で奏でられる垂直・水平の両面での音の連なりと組み合わせは多種多様な響きをもたらすわけであり、それを統制する技術力は作品の出来に大いに関わってくる。

音の構成がいくら見事でも、それがピアノという楽器の現実に合わないものであれば、その作品はピアノ曲としては出来がよいとはいえまい(ベートーヴェンのピアノ曲ではたまにそうした頁に出くわす)。逆に、楽譜の音だけを見るならば今ひとつ物足りないように思われる作品でもいざピアノで弾いてみると大いに輝きを増すものもある。

 こうした観点から独奏ピアノ作品とその歴史を精査してみれば面白かろう(もちろん、その場合、時代による楽器の違いを考慮する必要はあろう)。

 

 何かをつくりあげていくには恐るべき時間と労力が必要なのに対し、それを壊すことはあっという間にできる。もちろん、創造的破壊が必要なこともあろう。だが。今この国で繰り広げられているさまざまな「破壊」(反面、本当に破壊されるべきものは一向に破壊されないが……)は果たしてどうなのだろう?

2026年7月17日金曜日

ある面で「人間的、あまりに人間的な」回想録を再読

  先日、旧ソ連出身のピアニスト、ドミトリ・パパーノ(1929-2020)の『回想・モスクワの音楽家たち』(音楽之友社、2003年)を再読していた。著者の恩師アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル(1875-1961)のことや往時のソ連の音楽院や音楽界のありようが活写されており、まことに面白かった。加えて、そこで描かれている「人間ドラマ」も実に興味深い。

著者はあくまでも当事者なので、他者への評価には当然主観が色濃く反映されている。とりわけ、同業のピアニストへの評価は人物評も含めてなかなかに辛辣なものもある。たとえば、上の世代のヴィクトル・メルジャーノフ(1919-2012)に対しては1949 年のショパン・コンクール入賞の時点で実質的にキャリアは終わっている、などと言うのだ。ところが、調べてみるとその判定はどうも厳しすぎるようで、メルジャーノフはそれなりに活躍していた(し、録音を聴き比べると、少なくとも私にはパパーノ以上に優れたピアニストだと思われた)のである。逆に自分が親しいピアニストには随分点が甘い。もっとも、それもこれもひっくるめて、鋭い観察眼を持つ著者の手になる貴重なドキュメントであるとともに「人間的、あまりに人間的な」回想録は面白かった。未読の方には是非、一読をお勧めしたい。

 ちなみに、旧ソ連出身のピアニストで私が興味を持つのは、著者のパパーノよりも上の世代か、もしくはもっと下の世代である。1930年代生まれの同国出身のピアニストの演奏には概ね心が動かない。なぜだろう?

 

  ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ(1919-2006)の交響曲をCDで聴いているが、ただただ圧倒されるばかり(たとえば、次のものなどどうだろう。手持ちのCDの演奏とは異なるが、宇コア付きなので取り上げた:https://www.youtube.com/watch?v=aKOQ1r_zmgs&list=RDaKOQ1r_zmgs&start_radio=1)。そのサウンドは昨今の世情によく合うではないか。

2026年7月15日水曜日

NHK-FMの「コンテンポラリーを聴く」を聴きはしたものの

  先週はNHK-FMで「コンテンポラリーを聴く」と題して最近の海外で催された「現代音楽」関連の演奏会が取り上げられていた。たまたま付けたラジオでそれを知り、リアルタイムではなく、「聴き逃し配信」を利用して都合のよい時間に聴いていた。日曜朝に放送されている「現代の音楽」の番組づくりが低調極まりなくて聴くのを止めてしまっていただけに、この「コンテンポラリーを聴く」はなかなかに貴重な放送であった。

 さて、そこで取り上げられていたのは基本的には近年の作品なのだが(中には過去・現在の大家の作品も含まれてはいたが)、その多くはいわば「音響のコンポジション」あるいは「音響デザイン」の作品であり、まあ、それなりに耳を楽しませてくれるのだが、自分にとってはそれ以上のものではなかった(中にはつまらなくて途中で聴くのを止めた作品もいくつかある)。理屈抜きにこちらの心を鷲掴みにしてくれるような作品に出会いたかったのだが、残念ながらそれは今回叶わなかった。とはいえ、こうした番組はこれからも聴きたいと思っている。「よき出会い」を求めてのことだ。もっとも、そのために日々番組表をチェックしようとまでは思わない。あくまでも偶然の出会いに任せるつもりだ。 

2026年7月13日月曜日

何とも摩訶不思議で面妖な響き

  ニコライ・ロスラヴェツ(1881-1944)のピアノ曲をまとめて聴き、とりわけ次のものに驚いた:https://www.youtube.com/watch?v=GlpxNRipo_Q&list=RDGlpxNRipo_Q&start_radio=1

何とも摩訶不思議な響きではないか(もっとも面妖なのが第2曲。5’37”当たりからのもの。なお、私がCDで聴いたのは別のピアニストの演奏。それにもかかわらずこの動画をあげたのは、楽譜を見ることができるからだ)。ピアノからこのような響きをロスラヴェツは早くも1914年に引き出していたのである。

 ロスラヴェツの名は1980年代にすでに目にしており、作品も12曲はその時期に聴きはしたが、そのときにはそれ以上の興味・関心をそのときは持てなかった。その後も、散発的にピアノ曲に触れてはみたものの、やはり心は動かない。ところが、先日、「ピアノ曲全集」のCDを聴き(第2曲の演奏:https://www.youtube.com/watch?v=l0_CYM1P5uQ&list=RDl0_CYM1P5uQ&start_radio=1、「これは凄い!」と今更ながらに思ったわけだ。いったいどうやったら、あのような響きをピアノで生み出すことができるのか……。

 もっとも、このような作風ゆえにロスラヴェツは革命後のソ連で大きな方向転換を迫られることとなり、不遇の後半生を送ったようだ。もし、彼が祖国に早々に見切りを付けて国外に出ていたら、果たしてどのような作品を書いていただろうか?

2026年7月11日土曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第56回定期演奏会

  今日はいずみシンフォニエッタ大阪の第56回定期演奏会を聴いてきた(https://www.izumihall.jp/schedule/20260711)。演目は以下の通り:

 

 前半

リゲティ:100台のメトロノームのための交響詩 *

エトヴェシュ:リゲティ牧歌(日本初演)

ワーグナー:ジークフリート牧歌 

 

後半 

アザラシヴィリ:チェロ協奏曲

グバイドゥーリナ:音楽の玩具箱(2024室内管弦楽版/日本初演)

 

またしても実に面白い選曲である。とりわけ前半がすばらしかった。

 その前半だが、最初のリゲティ作品はある意味でまことに馬鹿馬鹿しい(褒め言葉!)もので、曲名にあるように100台のメトロノームが用いられている(それを操作するのはシンフォニエッタの楽員と指揮者)。それらは皆テンポが異なっており、最初はまさに混沌に始まり、次第に稼働するメトロノームの数が減っていく中でその混沌も収まってゆき、最後には1台のみが残る。照明などの演出上の工夫も相俟って、全体として何ともシュールかつ相当にブラックな喜劇的光景が現出した(そうした喜劇性はリゲティの他の作品にも聴かれるものであるが、やはりこの「交響詩」はひときわ強烈だ)。この面白さはやはり実演でないと味わえないだろう。その場に立ち会えて大満足である(まあ、こうした作品の場合、この1回で十分ではあるが)。

 続くエトヴェシュ作品もまた相当に喜劇的であり、これも最後までしっかり楽しませてもらった。それはいわば「ドタバタ喜劇」とても言えるもので、めまぐるしく場面転換がありながらも聴いていて少しも不自然ではないのだ。中にはリゲティに因むさまざまな仕掛けが施されているとのことだが、それを全く知らなくても問題なく楽しめるように書かれており、作曲者の腕の冴えと喜劇的センスには唸らされる。

 この2曲のあとに「牧歌」繋がり(エトヴェシュ作品の中でもそれが示されている)でヴァーグナーの《ジークフリート牧歌》が選ばれたようだ(私はこの曲が大好きだ)が、それとはまた違って意味でこの選曲を面白く感じた。まず、現代の作品のあとにこうした古い作品が置かれると、いつもとは少なからず違ったふうに聞こえる(演奏自体はごくまっとうなものだった。もう少し「熱演」度が低く、軽やかな方がよかったが、これはあくまでも私個人の趣味の問題だ)。また。今までそんなことは少しも思ったことはないのだが、このヴァーグナーの「牧歌」にも何かしら喜劇的な面があるように感じられたのである。おそらく先立つ2曲のあとでなければそうはならなかったに違いなく、この3曲セットで大いに楽しませてもらった。

 後半は前半とはまた異なる傾向の作品が選ばれているが、それら2曲の作曲者はいずれもショスタコーヴィチと繋がりのあった人である。今年生誕120年を迎えたこの大家の作品ではなく、縁のあった、優れた作曲家の作品を選ぶというのも、間接的なオマージュだといえようか。ともあれ、こちらも面白い選曲である。中でも私が惹かれたのはグバイドゥーリナ作品の方だ(アザラシヴィリ作品も佳曲であり、聴衆の反応がもっともよかったのはこれだった)。元々はピアノ曲だったものを作曲者自身が亡くなる前年(2024年)に編曲したものだとのこと。原曲も名曲であるが、この編曲はいっそうよい。原曲が持っていたさまざまな性格(中でもブラック・ユーモアのようなもの)がいっそう強められているように感じられ、まことに面白かった。

 こうした面白い演奏会を聴くと(演奏者および関係者の皆様、どうもありがとうございました。)、当然ながら次回も大いに期待しないわけにはいかない。さて、どのようなプログラムが組まれることだろうか。今から楽しみでならない(いずれガリーナ・ウストヴォリスカヤの作品を取り上げて欲しいものだ)。

2026年7月10日金曜日

冠詞恐るべし

  次にあげるのはゲーテの『ファウスト』第1部の一節である:

 

Denn, geht es zu des Bösen Haus,

/Das Weib hat tausend Schritt voraus.

 

これを山下肇が訳したもの(『ゲーテ全集3』、潮出版社、1992年)はこうなる:

 

悪魔のお里へ帰る日にゃ、

女は千歩も先走り。

 

原文の字面通りの素直な訳である。

 ところが、高橋義孝の手にかかると(新潮文庫、1967年)、訳は次のようになるのだ:

 

悪魔のところへ出向くとあれば、

男は女に到底叶わぬ。

 

前半はともかく、後半は驚くほど異なっている。なぜ、このようなことになるのか?

 この疑問に答えてくてるのが関口存男の『冠詞』だ(私が参照したのは少し前にした細谷行輝(監修)『冠詞の思想・改訂版』(三修社、2026年)である。以下、引用も同書に拠る)。まず、関口の訳文をあげておこう:

 

悪魔の旗下にはせ参ずる、いざ鎌倉というときは、男がどんなに急いでも、とうてい女にゃかなわない。

 

これは高橋の訳に近い(おそらく彼はこの関口訳を参照したのだろう)。そして、これについて関口はこう説明を加える。

 

上の例では、素朴な意識から考えると、むしろ複数形を用いてdie Weiberとでも言った方が良さそうに思われるのだが、それにも関わらず意図的に単数が採用されており、これによって明らかにある種の観念的な鋭さが感じられる。das Weibというのは実存するein Weibでも、総称のdie Weiberでもない、念頭で作り上げた抽象概念であり、非常に概念的な「概念」である(前掲書、89頁)。

 

つまり、上の文例では普通ならば複数形が用いられるところに定冠詞付きの単数形が用いられており、それにはしかるべき意味があると関口は述べているわけだ。

 では、その「意味」とはどのようなものか。この種の用法(=「類型単数」)一般について関口が加えている説明のうち、次のものが上の例には当てはまるようだ。曰く、「その名詞によって示された類の特性を強調するという含みを濃厚に持つ場合が多い」(88頁)。すなわち、この場合、Weib(女)の「特性を強調する」言い方であるがゆえに訳文にはそれをいっそうはっきり示すために「男」とか「にゃ」とかいう文言が表れることになるのだろう。

最初にあげた山下訳は誤訳ではない(し、氏の訳した『ファウスト』を私は愛読している)が、原語の読みの点で関口(高橋)訳とは「解像度」が異なる。冠詞と名詞の数の用法に着目するかしないかの違いでここまでの違いが生じるとすれば、その他の点も含めて、これまで自分がドイツ語を読んだときにいったいどれだけ多くの事柄を読み落としてきたのだろう。考えるだけでも恐ろしくなる(もちろん、それはドイツ語だけのことではなく他の外国語でも同様)。だが、それはそれとして、「やはり言語というものは面白いものだなあ」とお気楽にも感じる。のみならず、(遅ればせながらも、たとえほんの少ししかできないとしても)もっと深く学びたいと思う。

 

2026年7月9日木曜日

メモ(158)

  もしもソヴィエト連邦が成立していなかったら、ショスタコーヴィチはどんな作曲家になっていただろうか? あのままモダニズム路線と突き進むことになっただろうか。それとも、ソ連政権下にあった場合とは別の大きな転換を成し遂げただろうか。さまざまなその後の展開の可能性を潜在的に持っている彼の初期交響曲を聴いていると、ふと戯れにそんなことを考えてしまう。まあ、そのような音楽の楽しみ方があってもよかろう。

 

 ユルゲン・ハーバーマスが今年3月に亡くなっていたことを(いつものように)遅ればせながら知った。春先に書店で『ハーバーマス回想録』(岩波書店、2026年:https://www.iwanami.co.jp/book/b10159271.html) を見かけ、「これは読まねば!」と思った(が、優先順位の都合上、まだ実現していない)のだが、その時点ですでに泉下の人となっていたわけだ。

2026年7月4日土曜日

さよならハーゲン四重奏団

  昨晩は大阪のいずみホールでハーゲン四重奏団の「さよならコンサート」(https://www.izumihall.jp/schedule/20260703)を聴いてきた。至福のひとときだった。

 私がこの団体の演奏を初めて聴いたのはラジオでのこと。80年代前半のことである。そのときには彼らは「期待の新人」だったわけだが、やがて世界のトップクラスの四重奏団へと成長した。私は幸いにもいずみホールで何度か実演に触れることができ、その都度深い感動を味わってきた。が、ものには必ず終わりのときがくる。今回のツアーを最後にハーゲン四重奏団は解散することになっており、昨晩は大阪での最後の演奏会だったわけだ。

 演目は次の通り:

 

モーツァルト:弦楽四重奏曲 14 ト長調 K.387

シューマン:弦楽四重奏曲 3 イ長調 作品41-3

シューベルト:弦楽四重奏曲 13 イ短調 「ロザムンデ」 D804

 

最初の演目は事前に予告されていたものとは異なるのだが、私はむしろうれしかった。大好きな曲だからだ。

 いずれの作品でもこの四重奏団は様式の違いをはっきり示していた。すなわち、モーツァルト、シューマン、シューベルトの作品が、それぞれにいかにもその作曲家の音楽らしく鳴り響いたのである。こう言うと、「そんなことは演奏の基本ではないか!」と反論されるかもしれない。が、世の中の少なからぬ演奏はその「基本」が怪しいのだから、やはりこれは彼らの美点としてあげねばならない。

だが、それはクラシック音楽作品の演奏の「必要条件」にすぎない。では、「十分条件」とは何か。それは、演奏家(演奏団体)の個性を示すことである。そして、この点でもハーゲン四重奏団は「独自の音(楽)」を味わわせてくれるのだ。

そのような演奏だから、こちらもとにかく集中して「音のドラマ」に聴き入った。主題がどう展開・変容されるか、調性がどう推移するか、場面転換に際して何が起こるか、等々、一音たりとも聴き逃さないようにした、いや、自然に耳がそのように働いてしまった(こう言うと、またしても「そんなことはクラシック音楽作品、とりわけ弦楽四重奏曲のようなものを聴いてよく味わおうとするならば当然ではないか!」とつっこまれそうだが、世の少なからぬ演奏はそこまで耳を惹きつけてくれない。まあ、それらの演奏もまた、違った喜びをもたらしてくれるものではあるが……)。そして、その結果として最後に深い満足がもたらされる。それはいずれの演目についても言えることで、それ以上演奏について具体的にどうこう言う必要を私は感じないし、どうこう言いたくもない。

言うことがあるとすれば、「これまで数々のすばらしい演奏を聴かせてくれてありがとうございました」ということに尽きる(同じことをこれまで大阪彼らの演奏会を企画・運営し続けてきたいずみホールの関係者の方々に対しても申し上げたい)。今後彼らの実演を聴けないのはさびしいことではあるが、最初に述べたように「ものには必ず終わりのときがくる」わけだから仕方がない(が、彼らは数多の録音を行ってきているので、それはこれからも愛聴するだろう)。彼らが播いた種は下の世代の者たちの音楽において芽を出し、生長しているはずなので、これからはそうした者たちの演奏にもっと耳を傾けたいと思う。 

2026年6月29日月曜日

過ぎたるは猶及ばざるが如し

  超絶技巧を駆使した作品、とりわけ編曲ものを聴くと、しばしば「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という格言が脳裏をかすめる。最近も次の編曲でそのことを思った:https://www.youtube.com/watch?v=y7kTQCyDVn0&list=RDy7kTQCyDVn0&start_radio=1。これはヴェーバーの《ダンスの誘い》を19世紀半ばのヴィルトゥオーソ、カール・タウジヒ(1841-71)が華麗にパラフレーズしたものである。ピアノの演奏技巧を楽しめるという意味ではまことに見事な作品だ。が、そのことが同時にすばらしい原曲を損なうことにもなってしまう。もし原曲に何かしら不足があるのならば、編曲の付け足しは有益なものとなりうるが、この場合、ヴェーバーの原曲はそのようなものではない。ベルリオーズの管弦楽編曲のようなものならば、原曲の魅力を引き立てていると言えようが、このタウジヒのパラフレーズは「よけいなもの」を付け加えすぎているように私には聞こえて仕方がない。

 これと同じことを私はゴドフスキが編曲したショパンのエチュードについてもいっそう強く感じる。ショパンの原曲もまた、何かを付け足す必要の一切ないものであることはわざわざ言うまでもあるまい。ゴドフスキのパラフレーズはピアノ演奏技巧の提示という点では先のタウジヒのものを遙かに凌ぐ作品であることは間違いないし、だからこそこれを高く評価する人がいるのは当然だとも思う。が、そのことを十分に認めつつも、ゴドフスキ編曲のショパン・エチュードを私個人は好きになれない。

 

 先日、バルトークの《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》をコンタルスキー兄弟の録音で聴いた。すばらしい演奏である。それとともに、この作品の和声の美しさに魅了された。 天才が鋭敏な耳で聞き取って作品に結実させたものを凡人の私が果たしてどの程度聴けているのか心許ない(事実、この作品の美しさに気づいたのはそう昔のことではない)が、とにかくこの名曲をこれからも聴き続け、もっとよく味わいたい。

  

2026年6月25日木曜日

関口存男『冠詞』への格好の手引き

  希代のドイツ語学者関口存男(1894-1958)の著書にはあれこれ目を通してきており、言語というものの面白さと奥深さを教えられてはきたが、主著『冠詞』全3巻には手を出しかねていた。内容があまりに高度だからだ(いちおうぱらぱらとめくってみたことはあるので、そのことはわかる)。が、やはりこれはいつかきちんと読んでみたいとずっと思っていたところ、格好の手引きが見つかった。細谷行輝 監修 / 内堀大地 責任編集『冠詞の思想[改訂版]―関口存男著『冠詞』と意味形態論への招待―』(三修社。2026年)がそれだ(https://www.sanshusha.co.jp/np/isbn/9784384061901/)。同書は2016年に出たものの改訂版なのだが、初出のときに「そのうち読んでみなければ」と思っているうちに版切れになってしまったもの。だが、幸いにも今年になってその改訂版が出たことを知り、さっそく手にとってみたのである。

 読み始めて、関口の冠詞論の射程の広さと深さに改めて圧倒されるとともに、「よくぞ、ここまで整理整頓してくれました!」と思わずにはいられない。それほどに原著の記述は難しいからだ。が、この『冠詞の思想』があれば、今度こそ『冠詞』の最後までたどり着けるような気がする(もちろん、「目を通してみた」のレヴェルに留まるものではあろうが)。それによって自分のドイツ語読解力を高めることよりも、「言語」というものの奥深さをもっと知り、味わいたいという気持ちの方が強い。そして、それはおそらく異文化としての西洋音楽についての自分の理解を深めることにも繋がるはずだ。

 

 『チェロ湖』を読了してから、文学熱が再燃している。そこで昔々読んだ(だけの)ものをいろいろ再読し始めているが、それで改めて思うのは「ある種の文学作品を味わうにはある程度の人生経験が必要である」 ということだ。もちろん、そうした「経験」は人それぞれである。が、とにかく生きてきた中で自分が直接見知った事柄が作品を読む上で深みと広がりを与えてくれるわけである。だから、「再読」とはいいながら、実は「初読」のとき以上の新鮮な驚きや感激がそこにはあり、楽しくて仕方がない(同じことは音楽作品についても言える)。