クラシック音楽の作曲家の「作品」では基本的にはすべての音がきちんと書き表されている。それゆえ、それに演奏者が勝手に手を加えることは(少なくとも20世紀には基本的には)御法度である。
それに対して、ジャズのミュージシャンの「曲」はそうではない。それはプレイの素材であって、その都度の演奏者がプレイの中でアレンジすることを前提としている。ためしにハービー・ハンコックの自伝をぱらぱらとめくってみると、「作品work」という語は用いられておらず(細かくみたらあるかもしれないが……)、songとかpieceとかいう語が用いられている(邦訳書ではいずれも「曲」と訳されている)。そして、まさにハービーはそれをplayingのためのplatrofm(邦訳書では「素材」と訳されている)だと言い表している。
とはいえ、ジャズ・ミュージシャンが自分の「曲」に対して抱いている「自己への帰属感」や「所有感」は、たぶん、クラシックの作曲家が己の「作品」に対して抱くものとさほど変わらないようだ。だから、たとえばハービーは《処女航海》に対して「自分が書いた、最高の曲。少なくとも一番お気に入りの曲」などという言い方をするわけだろう。それはたんなる「演奏の素材」ではなく、己が生み出し、個性が刻印されたものとして大切に思っていればこその発言である。
が、それはそれとして、クラシック作曲家の「作品」とジャズ・ミュージシャンの「曲」は演奏での扱いが大きく異なるわけで、そこが私にとってはまことに面白く、興味深いところだ(ジャズ・ミュージシャンにとって「作品」に該当するのは、個々の演奏、とりわけその録音であり、編集を駆使してつくりあげたアルバムであろうか?) 。
セロニアス・モンクの「曲」集(THELONIOUS MONK fake book(ed. Don Sickler, Hal Leonard, 2002)を眺めている。それだけでも実に面白い。同じ「曲」を作曲者がプレイしてもその都度かなり違ったかたちになるわけだが、そこもまた面白い。この人はプレイぶりも独特だが、作曲家としてもまことに個性的だと再確認した次第。
その譜面はモンク自身が書いたものではなく、録音からのトランスクリプションだが、fake bookという語を辞書で繰ってみると、「フェイクブック、作曲者に無断でポピュラー音楽の曲とコードをのせた本」と語義が説明されていた。なるほど……(もちろん、曲の版権を所有する出版社に「無断」であるわけはない)。普通のジャズ・ファンには常識だろうが、私は今まで知らなかった。以前から不思議に思っていたのだが、そう思ったときにすぐに調べるようにしないといけないなあ。