2021年10月27日水曜日

荒涼たる音風景

   少し前に話題にしたシベリウスの第4交響曲のスコア(音楽之友社)を購ったが、神部智氏の充実の解説に圧倒されてしまった。となると、やはり、残る第5、第6、そして、ついでに交響詩《タピオラ》のスコアも音楽之友社には氏の解説で出していただきたいものだ。

 さて、そのスコアを眺めつつ当の作品を聴いてみたが、そこに広がっているあまりに荒涼たる音風景に絶句してしまった。スコアの解説には「交響曲の歴史においてシベリウスの第4番ほど無残な崩壊で終わる音楽はない」というカラヤンの言葉が引かれているが、そもそも「崩壊」する何かがそこに到る30分ほどの間に築き上げられているようにも感じられない。この交響曲では「交響曲の歴史において」それまで示されたことのない音風景が精密に描かれているのであり、そこには最初から最後まで全く人気(ひとけ)がない。何とも不思議な音楽であり、それゆえにこそ強く引き込まれてしまう(後年の《タピオラ》を思わせるものがこの交響曲には見られる)。

 ところで、神部氏の解説からもう1つ、興味深い言葉を引いておこう。シベリウスがこの第4について、ある手紙の中でこう述べているというのだ――「私の新作は現代音楽に対する厳正な抗議です。そこには全くサーカスの要素がございません」。もちろん、シベリウスは保守派ではなく、「現代の音楽」を書いているのだ。

 

 ある種の音楽は感情移入がしやすく、そのためにうまくいけば聴き手(や演奏者)にカタルシスをもたらすが、へたをするとマイナスの感情を増幅してしまうことにもなりかねない。その点、シベリウスの第4交響曲のような音楽は容易に聴き手の感情移入を許さないので、聴き手はただただそこで繰り広げられる圧倒的な音風景に見入るしかなく、その間は種々の雑念を振り払うことができる(と私は思う)。