ガブリエル・フォレ(1845-1924)は高名な割にはこの日本ではまだまだその作品が一般に愛好されているとは言いがたい作曲家だろう。たとえば、ピアノのリサイタルの演目として、ドビュッシー(「ドゥビュッスィ」という表記の方がベターだが、まあ、これは今更どうしようもない)やラヴェルなどに比べ、取り上げられる頻度が格段に低いようだ。また、弾かれるのも中期くらいまでの作品であることが多く、後期、晩年の作品はなかなか実演では聴けない(ヴァイオリン・ソナタも第1番が弾かれることが圧倒的に多く、2曲のチェロ・ソナタを普通に取り上げるチェリストがどれだけいることか……)。
その理由の1つとして考えられるのは、フォレ独自の和声だろう。そこではヴァーグナー以降の半音階的転調とはひと味異なる凝った転調に旋法の要素も加味され、何とも摩訶不思議な世界が現出している。そして、よくいえば「玄妙」、わるくいえば「もやもやした」このフォレ一流の和声には、日本人が愛好する平均的なレパートリーからすれば、些か馴染みにくいところがあるように思われる(かく言う私も、フォレの後期作品を楽しめるようになるまでに、かなりの時間を要した)。が、決して馴染めないものではないはずなので、もっと多くの演奏家が取り上げればよいと思う。
今から3年後にフォレの没後100年を迎える。その頃にはコロナも少しはマシになっているだろうから、演奏会でいろいろなフォレ作品――ピアノ曲、室内楽曲、歌曲――を聴ければ嬉しい。
これはなかなか面白そうではないか。
フォレがフランス国外ではなかなか受け入れられがたい作曲家だとすれば、ドイツの場合、それはたとえば、マックス・レーガー(1873-1916)のような人だろう。それでも「日本フォーレ協会」はあるが、「日本マックス・レーガー協会」は今のところないし、たぶん、今後もできまい。まあ、協会の有無はさておき、彼の多種多様な室内楽曲などは、取り上げ方さえ工夫すれば、それなりに普通の聴き手に十分に受け入れられると思うのだが、どうだろうか。