2023年6月13日火曜日

「日本(語)的演奏」をどうとらえればよいのか

  西洋音楽の「日本(語)的演奏」を私は一概に否定したくはない。日本語環境で生まれ育った者にとって、それはごく自然なものだからだ。そして、それで十分によさや違った面白さを味わえる作品も少なくないからだ。

 とはいえ、作品のありようによっては、そうした判断をいくらか保留したくなる場合もある。たとえば、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章の次の演奏を聴いたとき、その美しさに魅せられる一方で、音楽があまりに平板で静的なものになっていることにかなりの物足りなさを覚えた:https://www.youtube.com/watch?v=OgnrQpXm8tI。これはまさにリズムとイントネーションの面でブラームスの母語たるドイツ語よりも格段に静的な日本語の特性(この点についての説明は長くなるし、これまでにも何度か話題にしたので、ここでは割愛する)を如実に反映した演奏である。

 その違いを実感してもらうために例をあげよう:https://www.youtube.com/watch?v=aMxJ_LDlMt8。どうだろうか? 強調される音とされない音の差(これはドイツ語の特性に由来する)は歴然としており、音の連なりがいわば「波」のようになっている。そして、その「波」が音楽に推進力をもたらしているわけだ(これを聴けば、この楽章が4分の6拍子(つまり、2拍子)だということがよくわかるし、だからこそ、時折生じるヘミオラの面白さもよく味わえるはずだ)。

 繰り返すが、最初に挙げた演奏にも魅力的なところはいろいろある。そして、1つの演奏スタイルとしてはまことによく練り上げられたものであって、それを好む人がいても当然だと思う。ただ、後に挙げた演奏と大きな違いがあるのも確か(であり、この曲の場合、私にはそれが大いに気になった)。では、そうした違いをどう(必ずしも否定一方ではなく)とらえればよいのか――これはこれからの日本の西洋音楽にとって少なからず重要な問題であろう。