管弦楽曲の創作における「管弦楽法」に相当するものを優れたピアノ曲の作曲家は十分に心得ていることだろう。この楽器で奏でられる垂直・水平の両面での音の連なりと組み合わせは多種多様な響きをもたらすわけであり、それを統制する技術力は作品の出来に大いに関わってくる。
音の構成がいくら見事でも、それがピアノという楽器の現実に合わないものであれば、その作品はピアノ曲としては出来がよいとはいえまい(ベートーヴェンのピアノ曲ではたまにそうした頁に出くわす)。逆に、楽譜の音だけを見るならば今ひとつ物足りないように思われる作品でもいざピアノで弾いてみると大いに輝きを増すものもある。
こうした観点から独奏ピアノ作品とその歴史を精査してみれば面白かろう(もちろん、その場合、時代による楽器の違いを考慮する必要はあろう)。
何かをつくりあげていくには恐るべき時間と労力が必要なのに対し、それを壊すことはあっという間にできる。もちろん、創造的破壊が必要なこともあろう。だが。今この国で繰り広げられているさまざまな「破壊」(反面、本当に破壊されるべきものは一向に破壊されないが……)は果たしてどうなのだろう?