拙著『黄昏の調べ』では日本の「現代音楽」については一切触れなかった。それは「おわりに」で述べたように、もっと勉強が必要だと感じたからだが、その「勉強」はたんに事実関係を確認することに留まらない。つまり、長い伝統を持つ西洋とは異なり、日本の場合には西洋音楽の歴史が浅く、また、それとは異なる音楽文化の土壌があったがゆえに、ただ「前衛音楽」だけを考えるだけでは済まず、何かもっと別の視点を設定する必要があるのだ。
それが具体的にどういうものかはまだ自分の中でははっきりしていないが、『黄昏の調べ』の場合と同様、「これから」に対する提案を何かしら含むものとしたい。ただ歴史をきれいに整理整頓して物語ることになど私は全く関心がなく、どう「今を生きる」かに繋がるかたちで「これまで」を振り返り、「これから」を見据えたいと強く思っている。これはいずれ『黄昏の調べ』を増補改訂する中に「日本の『現代音楽』」に関する大きな章を盛り込むか、あるいは別書を著したいところだ。
……などと日々あれこれ考えていると、「計画」が増えていくばかり(さすがにこれ以上増やすつもりはないが……)。だが、仮に(これまでと同様、心が折れることなく人生の荒波に耐えて)あと20年元気に生きることができるとすれば、そのうち――すなわち、(1)「音楽する」実践に基づく/のためのプラグマティズム音楽美学、(2)「日本化された西洋芸術音楽」のありようの検証と新たな可能性の探求、(3)「日本の『現代音楽』」の批判的検討と新たな可能性の模索――の最低でも1つ、うまくいけば2つ、あるいは3つとも(できの良し悪しはさておき)実現できるかもしれない。定職を持たずに日々慎ましく生きてきた(し、これからもそのように生きていくことになるであろう)者がこれくらいのささやかな夢や希望を持ってもよいではないか。
ところで、私が武満徹にこだわるのは、彼の(ある時期までの)音楽を愛するだけではなく、やはり上記の問題を考える上で重要な人物だという「直感」があるからだろう。