たとえば《春の祭典》の複雑な変拍子をできるだけ簡単なかたちに書き換えて(ただし、もちろん元の効果を損なわないように細心の注意を払って)演奏したとしよう。すると、その「整理整頓」版による演奏を聴く者がどれだけ違いに気づくだろうか? そして、それに気づく(あるいは、気づかない)とすればどのような箇所なのか? また、それには聴き手の能力や経験も関わっているだろうが、たとえばこの作品のスコアをある程度把握している聴き手と、スコアなど見ないという聴き手の間では「違い」の判別にどのような差や違いがあるのだろうか? これは調べてみたら面白いと思う(さすがに原曲では準備が大変だろうから、ピアノ連弾版でやってみるとよかろう)。
私個人としては演奏効果を損なわない(=書き換えが手抜きだと思われない)のならば難しい楽譜の書き換えはかまわないと思っている。それはつまり、変に字面に縛られて変な演奏をするよりも、いくらか書き換えても見事な演奏をする方がよい、ということだ(ただし、そうした書き換えに馴染む曲もあれば、そうではない曲もあろう)。そもそもある作品の楽譜について、作曲者が最良の書き方をしたという絶対の保証はないのである。
私がこう考えるのは、ブゾーニの一連の編曲を念頭に置いてのことである。「ブゾーニ編」といえば、バッハのオルガン曲や〈シャコンヌ〉などの華麗なヴィルトゥオーソ的な編曲が有名だが、その一方で種々の他人の作品を「簡略化」してもいる。それはなぜかといえば、「無駄に難しい」原曲の枝葉を巧みに刈り込むことで、当該作品をいっそう力強く輝かしいものとし、効果的に聴かせることができると考えていたからだろう(もちろん、それには彼自身の「演奏力」も大きく与っていただろうが)。楽譜は所詮楽譜であって(と、楽譜の大切さは重々承知の上で、しかしながら敢えてこう言ってみたい)、音楽自体ではない――こう考えれば、しかるべき書き換えは「演奏解釈」の一部をなすものとして肯定的にとらえることができるはずだ。
そうした演奏上の「知恵」はプロだけではなく、アマチュアにとっても有益だろう。すなわち、ちょっとした効果的な書き換えをすることで、難しくて手が出ない「憧れの名曲」にアプローチし、音楽を楽しむことができる、というわけだ。その「手」は自分で考えるもよし、「知恵」の持ち主に習うもよしである。