今日、ミシェル・ベロフが弾くドビュッシーの《ベルガマスク組曲》の録音を聴いていて、ある箇所がなぜか気になり、もう一度聴き直してみた。何かが違うのである。そこで楽譜を取り出してきて見たところ、その理由がわかった。
そこでまずは手持ちの楽譜と同じ音が書かれたものをあげよう。それは次の動画の10‘27”のところである:https://www.youtube.com/watch?v=EwtHt9Qe8tU)。3段目の第2小節、1拍目の裏拍、左右ユニゾンの16音符の音に注目されたい。すなわちgis-h, f-a、という和音の連結にである。動画の演奏を聴けばおわかりのことかと思うが、この響きはどこか変だ。
では、ベロフはどうしていたか? この小節のgis音をすべてg音に変えて弾いていたのだ。すると、響きはごく自然なものとなる(演奏者は異なるが、次の動画の7’47”あたり:https://www.youtube.com/watch?v=Ko2_WjP4id4)。が、多くのピアニストが楽譜通りに弾いているものだから、なおのことその違いに驚かされるのだ(が、上記ベロフの録音をかなり長い間聴いてきたのに、今まで気づかなかったのは恥ずかしい)。さて、これはいったいどうしたことだろうか。
初版はもとより、ベーレンライター社の原典版でさえ、上記の「変な」音が記されている。なるほど、「変」だとはいっても、バランスをうまくとれば決して我慢できない響きではないし、ドビュッシーならばこんな音を書いてもおかしくないとの判断もありえよう。が、私はやはりこれは「変」だと思う。というのも、《ベルガマスク組曲》はまだ若い頃の作品であり、その時点でこうした音遣いを彼がしたとはちょっと考えられないからだ。
理由はまだある。問題箇所の3小節先の左手第1拍を見ると、そこにはg#音が記されているが、わざわざ#記号が付けられている。この部分の調号は#3 つ(イ長調/嬰ヘ短調)であり、g音もその3つのうちに含まれるので、改めて小節中に#を記す必要はないはずだ。にもかかわらず、それがあるということは、いわゆる「親切臨時記号」、すなわち、その前の部分で臨時記号によって変えられた音が元に戻ったことを念押しするものだからとしか考えられない(なお、初版のための初校刷を作曲者が訂正したものでもやはりここには#が記されており、それは訂正されていない)。つまり、この記号が付いているということは、その前の部分でg#音がg♮になっていなければならない(そして、ドビュッシーがその♮を付け忘れたか、さもなくば失われた自筆譜では付いていたのに初校で抜け落ちていたのを見落としたのであろう)、ということを意味するわけだ(音楽の流れからすればg♭はありえない)。
そこでいくつか録音を聴いてみると、ベロフ(ちなみに、今回聴いたのは同曲の2回目の録音であり、1回目の録音では楽譜通りに「変」な音になっている)以外でも上にあげたアラン・プラネスやフィリップ・カサールらがやはりg音で弾いている。これはたぶん、デュラン社から出ている『ドビュッシー全集』の楽譜がそうなっているからなのだろう(私は未見なので、近いうちに確かめてみたい)。もちろん、そうした処理の仕方も1つの「解釈」にすぎないのだとはいえ、私もそれに賛同したい。
ところが、それよりも新しいベーレンライター版は「変な」音のままであり、しかもこの件について「註解」でも何の説明もない。ということは、この版を利用する者はG#音を弾き続けることになるのだろうか? ともあれ、「原典版」といっても結局は利用者に注意深い判断が求められることを、この版は教えてくれている。
なお、この問題箇所に別なふうに解決しているピアニストも少なからずいる。すなわち、f♮音をf#音に変えて弾いているのだ。なるほど、こうすれば自然に響くが、この解決は「平凡な常識」の賜物である。というのも、その音が本当にf#であるべきならば、作曲者はわざわざ♮を付ける必要がないわけで、それを「自然さ」を理由に勝手に消去してしまうのは些か問題があるのではないだろうか(それに比べれば、楽譜通りにしつつも演奏の仕方を工夫しているピアニストの方が作品に対して誠実かつ謙虚だと言えよう。ただ、私は何も「楽譜に書かれていることには絶対に逆らってはいけない」などと言うつもりはない。作曲家が書き間違いをすることはいくらでもあり、それを演奏者がうまく修正することは「演奏解釈」の一部をなすことだからだ)。
もっとも、この件で私に人様の所行をあげつらう資格はない。かく言う私自身も、楽譜の読み落とし、演奏の聴き落としを長い間していたのだから。にもかかわらず、ここにこうした長々と書いたのは自戒のために他ならない。そしてまた、楽譜を読むことの難しさと面白さを述べたかったからでもある。