B. A. ツィマーマンの1950年代までの作品にはストラヴィンスキーの影響が顕著に見られる。が、昨日、《ペトルーシュカ》をスコアを眺めながら聴いていたとき、ある部分で、ふと「これはまるで《フォトプトシス》ではないか!」と感じた。すなわち、ツィマーマンの60年代後半の作品が持つ異なる層の重なりが生み出すテクスチュア、運動性、空間性といったものの先駆的なかたちを《ペトルーシュカ》や《春の祭典》などに聴くことができる、ということだ。この場合、影響を与えたストラヴィンスキーもすごければ、そこから独自の音楽を引き出したツィマーマンもすごい。
先日、武満徹の音楽が「静的」だと述べた。が、70年代までの作品にはその中にも「動」、言い換えれば「静」に終始しまいとする意志の力のようなものが見られた。ところが、80年代以降の作品になると、音楽はすっかり「静」に落ち着いてしまう。「動」に見えるものもないではないが、それはいわば閉じた庭の草木を揺らし、池の水面にさざ波を立てる微風のようなものであって、そこで何かが本当に動くことはない。これはこれで美しいし、そこに惹かれる人がいることも頷ける。私もまた、そうした作品の個々の部分が持つ美に耳を奪われることがあるからだ(それゆえに、この時期の武満作品であっても私は完全に無視することができない)。が、1つの作品として聴き通すとなると、今のところは退屈を覚えずにはいられない。いつか、そうならずに聴けるようになるだろうか……。