2021年10月31日日曜日

楽譜出版社の対応

 少し前、全音楽譜出版社の(すでに第3刷で、今後も何度も増刷される可能性のある作品の)楽譜に誤植を見つけたのでメールで伝えたところ、受付メールは来たものの、その後の音沙汰がない。同社の出版物にはお世話になっており、日頃感謝の念を抱いているだけに、この対応ぶりには正直がっかりした。だが、もし、また誤植を見つけたら、たぶん、懲りずにメールするだろう。やはりよい楽譜を出してほしいと1ユーザーとして思うからであり、同社に期待しているからだ。

*追記:その後、全音楽譜出版社からお返事をいただいた(https://kenmusica.blogspot.com/2021/11/blog-post_4.html)。それゆえ、上記の「がっかり」という言葉は撤回したい

2021年10月29日金曜日

ボブの指揮には興味がないが……

  米国におけるストラヴィンスキーの協力者として有名な指揮者ロバート・クラフト(1923-2015)だが、その演奏は私にとってはあまり面白いものではない。譜面を正確に音にしている以上のものが感じられないからだ(が、ストラヴィンスキーをいろいろな面で助けた彼の仕事についてはすばらしいことだと思う)。

 そのクラフトが手がけた世界初のアントン・ヴェーバーンの作品(番号付き)全集がCDで復活するとか(https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BC%881883-1945%EF%BC%89_000000000020730/item_%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%8C%87%E6%8F%AE%E3%83%BB%E7%9B%A3%E4%BF%AE%EF%BC%9A%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%EF%BC%884CD%EF%BC%89_12370968)。

これを出したコロンビアはのちにブゥレーズを起用して全集再録音を行っており、クラフト盤はその陰にすっかり隠れてしまったが、まあ、両者の音楽家としての力量差を思えば、仕方があるまい。もちろん、そのクラフト盤もヴェーバーン受容史やレコード史の脈絡で見れば、それなりの意義はあろうが、私はどうしてもクラフトの演奏に興味は持てない。

にもかかわらず、この復活ディスクに全く関心がないわけでもない。いや、それどころ、少なからぬ興味がある。というのも、ピアノを用いた作品をレナード・スタイン(1916-2004)が一手に引き受けているからだ。スタインは米国でのシェーンベルクの弟子で、助手を務めた人物(彼が編集したシェーンベルクの著作が数冊ある)であり、となると、彼がどんなふうにヴェーバーンに取り組んでいるのか気になるところだ。 

それにしても、たとえばベートーヴェンの同時代人が彼の作品をどう演奏解釈したかを今日の人々は文字資料から推測するしかないが、シェーンベルクなどの20世紀の作曲家については本人、そして、生徒や関係者の演奏解釈を録音で聴くことができる。そして、後代の者たちの解釈がどう変わっていったかも追跡することができる。当たり前と言えば当たり前だが、面白いことである。

 

ブゥレーズのヴェーバーン全集には2種類ある。1つは上で述べたコロンビア(現ソニー)のもの、そして、もう1つはドイツ・グラモフォンのものだ。後者は作品番号なしの作品も収めたもので、便利ではある。が、私は断然、1つめの録音の方が刺激的で面白いと思う。2つめの録音では概して演奏が「まろやか」すぎて、音楽が何の抵抗もなく頭の中を通り抜けていくように感じられるからだ。ただし、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない。グラモフォン盤の方を好む人も当然いよう。


2021年10月27日水曜日

荒涼たる音風景

   少し前に話題にしたシベリウスの第4交響曲のスコア(音楽之友社)を購ったが、神部智氏の充実の解説に圧倒されてしまった。となると、やはり、残る第5、第6、そして、ついでに交響詩《タピオラ》のスコアも音楽之友社には氏の解説で出していただきたいものだ。

 さて、そのスコアを眺めつつ当の作品を聴いてみたが、そこに広がっているあまりに荒涼たる音風景に絶句してしまった。スコアの解説には「交響曲の歴史においてシベリウスの第4番ほど無残な崩壊で終わる音楽はない」というカラヤンの言葉が引かれているが、そもそも「崩壊」する何かがそこに到る30分ほどの間に築き上げられているようにも感じられない。この交響曲では「交響曲の歴史において」それまで示されたことのない音風景が精密に描かれているのであり、そこには最初から最後まで全く人気(ひとけ)がない。何とも不思議な音楽であり、それゆえにこそ強く引き込まれてしまう(後年の《タピオラ》を思わせるものがこの交響曲には見られる)。

 ところで、神部氏の解説からもう1つ、興味深い言葉を引いておこう。シベリウスがこの第4について、ある手紙の中でこう述べているというのだ――「私の新作は現代音楽に対する厳正な抗議です。そこには全くサーカスの要素がございません」。もちろん、シベリウスは保守派ではなく、「現代の音楽」を書いているのだ。

 

 ある種の音楽は感情移入がしやすく、そのためにうまくいけば聴き手(や演奏者)にカタルシスをもたらすが、へたをするとマイナスの感情を増幅してしまうことにもなりかねない。その点、シベリウスの第4交響曲のような音楽は容易に聴き手の感情移入を許さないので、聴き手はただただそこで繰り広げられる圧倒的な音風景に見入るしかなく、その間は種々の雑念を振り払うことができる(と私は思う)。