2021年11月29日月曜日

Amazonで古書が買えるのは便利ではあるが……

  「本が売れない」と言われ出したのは今となっては随分昔のこと。もちろん。今でも「ベストセラー」というものはある。が、それ以外の本、とりわけ「堅い」本はじり貧であろう。拙著も情けないほどに売れない(涙)。

 が、そうした傾向にはAmazonも少なからず関わっているように思われる。ご存じのように、Amazonでは中古品が簡単に入手できるが、それが新本の売り上げを少なからず阻んでいるのではなかろうか。事実、今やAmazonでは拙著の新本はほとんど売れていないが、中古書ではそれなりに変動がある。ということは、わずかではあっても拙著を購う人がいるわけで、もしAmazonが古書を扱っていなければ、そうした人のうちの何割かは新本を買ったはずなのである。そして、これはもちろん、拙著に限ったことではなく、他の本についても言えることだろう。

インターネット出現以前ならば、古書というものはなかなかに入手が面倒なものだったが、古書店の寄り合い所帯たる「日本の古本屋」というサイトができて以来、それはごく簡単なものとなった。が、それでもそれは積極的に古書を求める人のためのサイトであり、新本を購うのが普通という人はそれほど利用していなかっただろう。ところが、Amazonは新本とともに中古書の在庫と価格も同じページに掲げており、こうなると、それまでならば古書を購う習慣を持たなかった人でも、ついそちらに手が伸びてしまうのが人情というもの。

実のところ、かく言う私もそうだ。少ない可処分所得の中でやりくりし、できるかぎり読みたい本を購おうとすれば、そのうちの何割かはどうしても古書に頼らざるをえず、著者や訳者には悪いと思いながらも、古書で購っている次第(数年前までは絶版書以外は新本しか買わないようにしていたが、現在の私の懐具合ではもはやそんなことも言っていられなくなった)。それゆえ、自著の売れ行きについてぼやいてはいけないことは重々承知している。

……が、新本が売れないということは出版業界にとってはまことに困ることであり、そうなると、さほど売れるわけでもない専門書の出版はますます難しくなる。そして、それは書き手にとっても、読み手にとっても重大事であろう。というわけで、何かうまい解決法がないものだろうか。

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今日、仕事帰りに立ち寄った本屋で、しばらく版が途絶えていたジャズ・ピアノ教本が再販されていたのを見つけ、立ち読みしてきた。なかなかよさそうな内容だった。注意して見たのは、和声の声部進行がきちんとしているかどうかという点である。というのも、以前に購ったある教本はその点がまるでなっておらず、練習する意欲を削ぐものだったからだ。その点、今日立ち読みした教本はきちんとしたものであり、これならば練習してみたいと思った。高価なものだったのですぐには購えないが、いずれ是非!

2021年11月27日土曜日

メモ(80)

  西洋音楽の楽譜を読みつつ頭の中で音を鳴らす場合には、それは一種の「演奏」だと言えよう。だが、楽譜はいわば絵画作品のように読むこともできる。すなわち、作品内の時間を前後に自由に行きつ戻りつしつつ、楽譜に書かれていることを分析・総合できる、ということだ。もちろん、そうした「読み方」は実際の演奏や聴き方にフィードバックされうるものだが、それがすべてではない。音楽作品全体を一望の下にとらえるような読み方は、それ自体、演奏からは独立した意味と意義を持ってきたはずだ。とりわけ、音楽についての言及行為の中で。 

  同様に、楽譜を「書き写す」ということについてもいろいろ考えてみるべきことがあるだろう。それは「音楽する」ことの中でどのような意味・意義を持っているのだろうか、と。

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  楽譜を「写経」していると、当該作品についていろいろなことがわかる。のみならず、時には「ここはもっとこうすればよいのに」などと不埒にも思ってしまうこともある。 とにかく、楽譜を書き写すことは私にとっては実に楽しい「音楽すること」の1つだ。

2021年11月25日木曜日

ペーター・アンダースの《冬の旅》に今更ながらに驚く

 ドイツの往年の名テナー、ペーター・アンダース(1908-54)が歌う《冬の旅》の録音(1945年)を久しぶりに聴き、今更ながらに驚いた。微妙な、だが現代のものよりは格段に大きく、頻繁につけられている緩急の変化に対してである。以前にはそれほど気にならなかったのは、たぶん、身を入れて聴いていなかったからだろう(恥)。だが、今回はそうではなく、だから驚いたわけだ。

 とはいえ、それが妙だなどとは少しも感じなかった。むしろ、そうした「緩急」は歌詞の内容や音楽のつくりに合致しているように聞こえたのである。そこで、慌てて他の同時期の録音を聴いてみると、程度や表現の仕方の違いこそあれ、そうした緩急をつけて歌手は歌っているではないか。

 実のところ、そうしたことは器楽曲の演奏に関しては随分昔から知っていたことだが、歌曲ではある時期以降の録音しか聴いていなかったので、その当たり前のことに気づかなかったのである。そして、今、昔の唱法に面白さを感じているところだ。

 現在の唱法はアンダースらの流儀とかなり違うが、そうなる理由があったのだろうし、そうした変化自体が面白く感じられる。そして、今後、歌曲の唱法がどのように変わっていくかにも大いに興味が持たれるところだ(が、それ以上に私が関心を持つのは、日本語歌曲の唱法がもっとよいかたちに整備され、また、日本語にもっとしっくりくる歌曲が生まれることである)。 

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 ちなみにアンダースは若くして亡くなっているが、死因は交通事故だとか。あの困難な戦争の時代をせっかく生き抜いたというのに……。それもまた「運命」というものだろうか。

 私が好きなドイツ人テナーのフリッツ・ヴンダーリヒ(1930-66)が亡くなったのはそのアンダースよりもさらに若いときだった。生きていれば、まず間違いなく《冬の旅》全曲も録音していたことだろう。聴いてみたかったなあ。