所用があって出かけた旅先でのこと。みやげものを物色していると、人々の話し声や物音の中から聴き馴れた音楽が聞こえてくる。モーツァルトの数あるピアノ協奏曲の一節だった。それと気づき、しばし耳を傾けていると、それが妙に胸にしみる。
私はそこに何を聴いていたのだろうか? 郷里での「所用」や往時の懐古がもたらした数々の感慨がその音楽に何かしら「色づけ」をした可能性は否定できない。が、決してそれだけではない。もちろん演奏会場で実演を聴くのとも自宅でCDを聴くのとも異なるものの、そこには音楽としての実質があった。もしかしたら、それまでに聴けていなかったかもしれないものをも含めて。
この場合、実のところ「何」を聴いたのかなどどうでもよいのかもしれない。肝心なのはとにかく何かを聴いたその体験がまことに充実したものであったことの方だろう。すると、改めて考えてしまう。果たして音楽とは何なのだろうか、と。
ある事柄について人が理解を深める上で重要な契機の1つは、それまで自分が正しいと信じていたことがある面では「実はそうではなかった」と知ることであろう。言い換えれば、己の理解の不完全さを自覚する、ということだ(と、自戒の念を込めてこう記す)。
上で話題にしたモーツァルトのピアノ協奏曲――第13番ハ長調K. 415の第3楽章をリリー・クラウスの独奏で聴いてみる。やはり素敵な曲だ。そこには光と陰の微妙な交錯があり、クラウスの演奏はそれをごく自然に描き出している。そして、だからこそいっそう胸にしみる。
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