クリストファー・スモールの『ミュージッキング』(原著は1998年、邦訳は水声社、2011年)は音楽を行為の対象としてではなく、行為自体としてとらえることでそれまでの音楽論の狭さ(もっとはっきりいえば、クラシック音楽の「作品」中心主義)を乗り越えようとした快著であり、そこにはいろいろなヒントが示されている。が、私には受け入れがたいところもある。
スモールは「音楽する(to music)」(musickingはその動名詞形)ということを「どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり、これには演奏することも聴くことも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのための素材を提供すること(つまり作曲)も、ダンスも含まれる」(邦訳、30-31頁)だとし、さらにそこには「チケットのもぎりや、ピアノやドラムのような重たい楽器を動かすたくましい男たち、はたまた楽器をセットアップしたりサウンドチェックをするローディーたち、それから、パフォーマンスの場から人がはけた後で活躍する掃除夫を含めることすらできる。なぜなら、かれらも音楽パフォーマンスという出来事に、本来、貢献しているからだ」(同、31頁)と言う。
なるほど、それは従来の「音楽」行為のとらえ方よりも格段に広いかもしれない。が、私はそれでもまだまだスモールのとらえ方は狭すぎると思う。私も現在執筆中の『ミニマ・エスティカ――音楽する人たちのための音楽美学』で「音楽する」という語を用いているが、その守備範囲はスモールのものよりももっと広い。すなわち、私にとって「音楽する」とは、「どんな立場からであれ何らかのかたちで音楽に関わること」を意味し、必ずしも「パフォーマンス」を中心とするものではないからだ。そして、スモールは「ミュージッキングとは何をおいても演奏することと聴くことなのだ」(同、397頁)といい、「すべてのミュージッキングは真剣な営みである」(同、394頁)と説くわけだが、私が考える「音楽する」ことは演奏や聴取を特権化するものではないし、「真剣」でない営みもそこに含めている(スモールにとっては「ながら聴き」はミュージッキングではないだろうが、私にとっては十分「音楽する」ことに属するものだ)。
つまるところ、私が言う「音楽する」とは音楽をめぐる種々のゲームの総体を指すものであり、そこにはパフォーマンスに重きをおくゲームもあれば、「作品」を中心にするゲームもある。また、参加者が音楽を真剣に扱うゲームもあれば、ことのついでにしか扱わないゲームもある(そして、それらのゲームでは「言及行為」も重要な役割を果たす)。にもかかわらず、すべての音楽をパフォーマンスを中心にすえた「真剣な」行為としてとらえようとするのは、作品中心主義と同じくらい暴力的であり「政治的」である(スモールは「『音楽する』という動詞は価値判断とは無縁だ」(同、31頁)だというが、この動詞のperformativityは少なからず政治的である。まあ、それが悪いということではないが……)。それゆえ、スモールの論には学ぶところは多々あれどもそれに全面的に従うことは私にはできない。ではどうするのか? 私なりの答はいずれ『ミニマ・エステティカ』で示すことにしたい。