2026年8月14日金曜日

これは驚き

  先日、読書をしていて、ある件に心底驚いた。内容をかいつまんで言うと次のようになる――日本のあるピアノの大先生が1人の生徒を高校入学時から大学院修了までの9年間教えたのだが、演奏上の悪い癖を直させることができなかった。そのためか、その生徒は演奏家として立つことを断念し教師として生きる選択としたというのだが、その門出にあたって大先生は「生徒の前で弾いてはいけない。もし、弾くときにはそれが『悪い見本』だと断ってからにしなさい」と言ったという(ことを著者に語った)――(いつもなら典拠を示すところだが、そこには実名が書かれており、私は必ずしも個人批判をしたいわけではないので、今回は略す)。なるほど、その生徒にピアニストとしてのある種の技術が欠けていたのは確かだろう。が、9年も面倒をみていながら、それを直すことができないというのは、教師の側にもかなり大きな問題があるのではないか。そして、件の大先生にはその自覚が一切ないのだ。これを驚かずにいられようか。

 もちろん、名演奏家は必ずしも名教師ではない。むしろ、逆のことが多いようだ。何となれば、才能のある演奏家は凡人ができないことをさらっとやってのけるが、それだけに凡人がそうできない理由がわからないからだ。その大先生もそうだったのかもしれない。が、少なくとも苦労している生徒の現実は目にしていたわけだから、その手助けをできる別の教師(が仮にいたとすれば、その手)に委ねるという手もあったはずだ。それが無理ならば、もっと早い段階で引導を渡すということもできたであろう。それを大学院修了までさせたあげくに上述のようなことを言うのだから、あんまりだ。

 もっとも、これは日本に限ったことではないようで、もっと酷い話もある。すなわち、フランスのあるピアノの先生は自分の弟子が国際コンクールでの演奏で「極端に不合理な動き」をすることを嘆いておきながら、人から「どうして悪い習慣をやめるように注意しなかつたのか」と「咎められると「身体的な問題点を矯正するのは自分の義務ではない」と答えたという(ピーター・フォイヒトヴァンガー『ピアノにおける音楽的表現のためのエクササイズ』、CLAP2026年、12頁)。つまり、自分が面倒を見るのは音楽面のことであり、それ以外のことは関係ない、というわけだ。

 なるほど、それはそれで1つの考え方ではあろう。が、目の前の生徒が苦しんでいるにもかかわらず、その問題点の解決を手伝わない、もしくは解決に導いてやれないというのは、教師としていかがなものだろうか(上の事例を示したフォイヒトヴァンガーも「それが教師の義務でないとしたら、いったい誰の義務だというのであろうか」(同)と憤慨している)。その問題点に教師が気づいていなかったのならば仕方がない。が、そうではなかったのならば、何もできなかったことを教師は恥じてしかるべきだったろうに(もし恥じていたのならば、大先生がその件を人に語るときにそうした調子があったはずだが、それはなく、生徒の資質の問題にすぎないとみなしていたようだ。そして、だからこそ、平気で人に話せたのだろう)。まあ、大先生の件はかなり昔のことであり、現在の日本ではこのようなことはないであろう、と信じたい…………。