2024年11月8日金曜日

デ・キリコ展

   今日はデ・キリコの展覧会を観に、妻と神戸に出かけてきた(https://www.kobecitymuseum.jp/exhibition/detail?exhibition=382)。まことにすばらしかった。キリコの絵は昔からなんとなく好きだったのだが、今回いろいろな作品を観て、自分が思っていた以上にすごい画家だったと(己のちっぽけな)認識を新たにした。

私がキリコの絵として知り、好んでいたのはのっぺらぼうのマヌカンが登場するものであり、次の絵である:https://www.artpedia.asia/melancholy-and-mystery-of-a-street/(残念ながら、この絵は展示されていなかったが)ところが、彼の画風はもっと幅広く、一生の間にかなり劇的に様変わりするのだ。そのことを知らなかったから今日は驚いたわけだが、同時にこうも思った。「なるほど、天才は何をどう描いてもさまになるものだなあ」と。これが「才人」レヴェルだと、何か1つの独自の作風を貫くことで己のアイデンティティを示す(しかない)わけだが、「天才」はそうでなく、何をどう描いても、そこにその人の証しが自ずと刻印されるのだ(これは音楽などについても言えることだ)。というわけで、そんなキリコの絵に今日は圧倒されるとともに、大いに楽しませてもらった。

ところで、キリコといえば、このジャズのアルバムだ:https://www.youtube.com/watch?v=3oHjXTZO33g&list=PLXWSlLJP98qW3D46tqMc5cXN3gip8KZUj&index=6。ジャケットに用いられた絵と同様、何ともシュールな音楽である。

 

先日話題にしたアイヴズ本だが、読めば読むほどに面白い。その最大の美点は『アイヴズを聴く』という書名にある通り、作品の「リスニング・ガイド」である。譜例を一切使わず、音楽の仕掛けと聴きどころを簡潔明瞭に示す著者の力量には唸らされる。読みながら、「なるほど、これはこういうことだったのか!」と蒙を啓かれることの連続だ。断言しよう。これはアイヴズ・ファン必読(懐に余裕のある方には必携)の本だと。

2024年11月7日木曜日

メモ(127)

  どんな音でも音楽になりうる(=音楽として聴ける)と説いたのはジョン・ケィジだった。だが、その場合の「音楽」はそれまでに人々が行ってきた種々の音楽とは決定的に異なっている。後者の音楽は必ず「スタイル(すなわち、音の扱いの型)」を持っているのに対して、前者はそうではないからだ(「スタイルを持たないことがスタイル」だと言えなくもないが……)。それゆえ、ケィジのことを「音楽の概念を拡げた」などと単純に言えるものかどうか……。彼が拡げたのは「世界のとらえ方」だとは言えようが。

 なお、付言しておけば、個人的にはケィジの音楽には大好きなものもあれば、そうでもないものもある。そして、「思想家」としてよりも「音楽家」としての彼の仕事に心惹かれる。

2024年11月6日水曜日

すばらしいアイヴズ本の登場

  今日大学の図書館で、ぱっと目に飛び込んできたのが次の本だ:https://artespublishing.com/shop/books/86559-297-9/。今年生誕150年を迎えた米国の作曲家、チャールズ・アイヴズを論じたものである。もちろん、すぐに借りた。ぱらぱらとめくってみると、まことに面白そうだ。

これまで日本語で読める(そして、読むに値する)アイヴズ関連本は1冊しかなかった。同じ著者による『チャールズ・アイブズ : 音楽にひそむアメリカ思想』(旺史社、1993年)である。同書では作品についてはあまり論じられていなかったのだが、『アイヴズを聴く : 自国アメリカを変奏した男』では書名にある通り、作品について十分な記述がなされているようだ。というわけで、これはアイヴズ・ファンにはもちろん、彼の音楽をまだあまり知らない人にとっても貴重な手引きとなろう。この出版にとって(も)厳しいご時世に、よくぞこのような訳書を出してくれたものだ。というわけで、訳者と出版社には大感謝である。 

 

ところで、米国の大統領選でトランプ氏が当確だとか。まあ、ハリス某になるよりは世界にとってはいくらかましなのではなかろうか。

2024年11月5日火曜日

メモ(126)

  親しい人(私の場合、たとえば妻)と会話をしていると、なぜか相手の次の言葉がかなり正確にわかるときがある。それは会話の脈絡から推察されることもあるが、そうしたものが全くなくてもピンとくることもある。脳がそれまでのデータを踏まえて瞬時に「この人ならば、こういうときにはこういう言葉を発するであろう」ということを判断するのだろうか? それとも、何か人知を越えた不思議な力が働いているのだろうか?

いずれにせよ、音楽の演奏においてもこうした洞察力が働いているに違いない。さればこそ、同じメンバーによる室内楽でも、臨機応変、当意即妙の新鮮な演奏が可能になるのだろう。逆に言えば、そうした洞察力抜きに練習でつくりあげたことをいつも同じふうに再現しようとするならば、一定してある水準の演奏ではありえても、とんでもなくすごい演奏にはなりえまい。

2024年11月4日月曜日

気分はノーノ

  昨日の日曜、例によって午前中にNHK-FM「現代の音楽」を聴く。ルイージ・ノーノ(1924-90)の特集だった。その中でピアノとテープのための《苦悩に満ちながらも晴朗な波…》(1971-72)が取り上げられていた。番組の途中から聴き始めたのだが、とてもよい演奏だったので「いったい誰が弾いているんだろう?」と気になる。果たしてそれは北村朋幹の演奏だった。そこで調べてみると、この曲をリストの《巡礼の年》その他とともに収めたCDが出ているではないか。これは是非ともそのうち聴かねば(ケージの《ソナタと間奏曲》のCDも!)。

 この日は「気分はノーノ」になってしまったので、その後、いくつか手持ちのディスクを聴いてみた。まず、《苦悩に満ちながらも晴朗な波…》をポリーニの演奏で。これも悪くはないのだが、私は北村の演奏の方に心惹かれる。ついで、同じポリーニが参加しているソプラノ、ピアノ、管弦楽とテープのための《力と光の並のように》(1972)を。これはあまり好きな曲ではなかったのだが、今回はなかなかに楽しめた。さらには弦楽四重奏のための《断片-静寂、ディオティーマへ》(1980)をも。だが、この最後の曲は聴き手に極度の集中力を要求するので、さすがに何曲かノーノ作品を聴いた後では辛かった。こうしたものに対しては、やはりコンディションを整えてからでないと……。

 20世紀イタリアの作曲家の中でノーノは必ずしも私好みではないのだが、それでもこうして時折作品を聴いてみたくなる。

2024年11月3日日曜日

ピッチが半音も違うと

  昔、SP盤をLPに転写する際、ピッチがおかしくなっているものがたまにあった。私が少年時代、コルトー演奏のショパンのエチュード集を購い、帰宅して再生してみると、ピッチが半音高くてがっかりした記憶がある。ピッチが半音も違うと(そして、それ以上に気色悪いのが、テンポが不自然に――いわば早回しの映像のように――速くなることだ)、別の音楽に感じられたからだ。当時の私にとって、1枚のLP盤の買い物は一大決心を要するものであったのに……。

 さすがに現在にはそのような転写に際してのピッチの狂いはほとんどないようだが、皆無だというわけでもない。昨今は著作権の切れた録音を「盤起こし」、すなわち、マスター・テープからではなく、発売されたディスクを元に作成したCDがあれこれあるのだが、その中にはまことに良質なディスクもあれば、音質が格段に下がっていたりピッチがおかしくなっていたりするものもあるのだ(そのような場合、オリジナルのディスク自体のピッチがおかしいこともあるかもしれないが、転写する際に修正することはできるはずだ)。そして、後者のようなものをうっかり掴まされてしまった場合、私はそのメーカーのものは二度と手を出さないことにしている(たとえば、ギオマール・ノヴァエスの録音を集めた14枚組のセットを出しているVENIASなど。その1枚にショパンのワルツを収めたディスクがあるのだが、すべてのワルツでピッチが半音高い! 同じディスクにある第3ソナタのピッチは正しいにもかかわらず。ともあれ杜撰だとしかいいようがなく、このメーカーとはサヨナラである)。

  

このブログでは基本的に日々の雑感やたわいもないことを書き綴ってきており、その方針はこれからも変わらない。が、もう少し内容のあることを書き、そうしたものが書けたときにのみ公表し、人様に読んでもらいたいという気持ちもある。ならば、ホームページを開設すればよいのだろうが、それも今ひとつ億劫になってしまった。すると、もう1つくらい別なブログをつくり、使い分ければよいのかもしれない。 しばらく考えてみることにしよう。

2024年11月2日土曜日

実に美しい音楽

  シェーンベルクの音楽をはじめて聴いた少年時代、とてもそれを「美しい」とは感じられなかった。のみならず、一部の作品を除いては積極的に聴きたいとも思わなかった。ところが、それから短からぬ月日を経て、気がつけば「ああ、美しいなあ」と感じる瞬間を多々見いだせるようになっていた(もちろん、その「美しさ」はたとえば古典派やロマン派の音楽に感じられるものとは異なるものだが)。

すると、「シェーンベルクの音楽の聴き辛い響きは作曲当時の世のありようを反映しているのだ」といった類の物言いはかなりのところ疑わしく思われるようになった。もちろん、そうした「反映」が(意識的になされたものであろうとなかろうと)全くないわけではなかろう。だが、それだけであるはずがないのだ。

シェーンベルクはあるとき、自作の《管弦楽の変奏曲》を聴いた人から「実に美しいです」と言われ、素直に喜んでいる。私も同じ感激を作曲者に伝えたい気持ちだ。