2020年4月28日火曜日

海を越える落語

 過日、『柳家喬太郎のヨーロッパ落語道中記』(フィルムアート社、2019年)という本をとても面白く読んだ(喬太郎師匠ファンの娘の勧めで)。落語の公演を海外でやっていたとは知らなかったが、歌舞伎なども海外で公演しているくらいだから、落語でも同様なことがなされていたとしても不思議はないわけだ。
が、視覚的な要素が強い前者に比べ、ほとんど「言葉」で勝負する後者はさぞかしたいへんだろう。同書によれば、あらかじめ字幕を入念に用意し、そのままでは通じそうもない翻訳不可能な箇所は適宜アレンジするのだとか。すると、非日本語話者にもそれなりに通じるらしい。もちろん、それには落語家のパフォーマンスの力も大いに与っていよう(昨年、喬太郎師匠の公演を娘と観てきたが、いや、見事だった。何とも自然に笑いを引き出してくれるので、公演後はすっかり気分爽快に。まことに「お笑い」の芸というのは偉大である)。
 もちろん、そうはいっても、どうしても伝わりきらない部分は残るだろう。が、たとえば、日本人が西洋のオペラを字幕で観る場合にも同じことはいえるわけで、その辺はお互い様である。私が興味を持つのは、言葉や背景となる文化の違いを超えて「伝わる」のはいったいどういう部分なのか、ということだ。落語の筋に留まらず、もう少し深い部分で何かが伝わらなければ、そうそう海外で公演を続けられるはずもない。ということは、「何か」が伝わっているのは確かであろう。また、落語のそれ以外のどんな部分に異邦の人たちが何を感じ、どういうふうに反応するのかにも興味がある。
 異文化間の「理解」には大なり小なり何らかの「誤解」がつきものだが、仮にそれが「こんにゃく問答」のようなものになったとしても、何か1つのものによって人々の間に交流が生じ、当事者がそれぞれに幸せな気分を味わえるのであれば、それはまことにけっこうなことであろう。もちろん、それは日本に移入された種々の外国由来の((西洋芸術音楽を含む)文物についても言えることだ。