2022年12月30日金曜日

〈なぎさ歩めば〉

  こういう曲を聴くと、私は胸の高鳴りを抑えることができない:https://www.youtube.com/watch?v=ovWrgqO3JYY。素直に「いいなあ」と思う(のみならず、自分も合唱の中で歌ってみたくなる)。

 この名曲〈なぎさ歩めばの〉作曲者は佐藤眞(1938-)だが、彼の合唱曲としては〈大地讃頌〉も広く愛されている曲である(だからこそ、そのカヴァー・ヴァージョンをつくったバンドさえあったわけだ。が、そのときの作曲者の狭量な対応――「〈大地讃頌〉事件」として知られるもの――にはかなりがっかりさせられた)。そして、おそらく後世の人は佐藤眞をいくつかの交響曲をはじめとする種々のそれなりに充実した作品ではなく、これらの合唱曲の作曲者として記憶することになるのではなかろうか(これはなにも佐藤に限ったことではない。たとえば、先頃亡くなった野田暉行(1940-2022)なども、名作《ピアノ協奏曲》(1977)などではなく、児童合唱曲の佳品《空がこんなに青いとは》の作曲者として一般の人には記憶される可能性が多分にある。そして、こうしたことに20世紀後半以降の芸術音楽の困難な状況と問題性を見ないわけにはいかない)。

 なお、佐藤は上にあげた〈なぎさ歩めば〉を含む組曲《旅》の改訂版をつくっている。が、その出来に私は些か疑問を覚える。〈なぎさ歩めば〉には前奏が新たに付け加えられているのだが(https://www.youtube.com/watch?v=cbi0Ckce2aA) これを「改訂版」が必ずしも「改良版」ではないことの好例だといえば辛辣すぎるだろうか。……が、こう言いたくなるのも〈なぎさ歩めば〉という名曲を愛していればこそである。もちろん、この(私には蛇足だとしか思えない)前奏を好ましく感じる人もいることだろう。

2022年12月29日木曜日

昨今の世情に重なって聞こえる音楽

  昨今の世情に重なって聞こえる狂乱の音楽:https://www.youtube.com/watch?v=JPde80v-af0。来年はそのあまりにブラックな結尾のようなことにならなければよいが……。

 

 数年前、年末にブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に読み耽ったものだが、今年は同じ著者の『犬の心』(http://www.michitani.com/)をご近所図書館で借りてきた。無粋を承知で先に訳者、石井信介氏による解説から読み始めたのだが、それでよかった。というのも、そこで説明されているような背景を知らなければ同作の肝心なところを読み落としてしまうだろうからだ(なお、この訳書は訳註も充実している)。ともあれ、これから本編を読むのが楽しみであるとともに恐ろしくもある。読了後には『巨匠とマルガリータ』も再読してみよう。

 

 どうやら大方の「音楽する人」にとっては普通の意味での「音楽美学」などほとんど不要、つまり、そんなものなどなくてもいっこうに困らないなようだ。とはいえ、それを必要とする場面が「音楽すること」の中に全くないわけでもない。では、それはどのようなものなのか――これが『ミニマ・エステティカ』のはじめにくる問いである。

 

2022年12月24日土曜日

今年はなぜか時折、無性にアイヴズが聴きたくなる

  今年はなぜか時折、無性にアイヴズが聴きたくなる。先日もフィンランドのピアニスト、ヨーナス・アホネンが弾くソナタ2曲をCDで楽しんだところだ(たとえば、第2ソナタの第1楽章:https://www.youtube.com/watch?v=SS7SMs8XEeQ)。その際、改めて感じたのがアイヴズの音楽の「美しさ」である。昔はその混沌とした響きや自由奔放さに心惹かれたものだが、今の私にとっては何よりもアイヴズの音楽は響きの、そして、それが示す世界、ユートピア(原義は「どこにもない場所」)の「美しさ」のゆえに魅力的なのである。

2022年12月23日金曜日

あれこれ

  いや、これは面白い(https://www.youtube.com/watch?v=_Vwv_rWm2rY)。先細りの西洋芸術音楽にとって、このような才人の存在は貴重である。

 

 ご近所図書館でようやく順番が回ってきたエマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年)を読んでいる。ウクライナの一件で一方的に「ロシア=悪」と決めつける報道(プロパガンダ??)が多い中で、この書で繰り広げられている冷静な分析にはいろいろなことを考えさせられる。とにかく、この紛争が一刻も早く終わることを祈りたい(祈ることしかできないというのは何とも情けないが、仕方がない)。

 私はアイヴズやケージ、バーバーやバーンスタイン、モンクやマイルズのアメリカをこよなく愛するし、プラグマティズムの哲学を生み出し、発展させたアメリカに深い敬意を抱かずにはいられない。が、世界中で紛争を引き起こし、隷属させている国に無理難題を押しつけるアメリカにはうんざりである。

 

 本格的な作品を立派にこなせることも大切かもしれないが、ちょっとした小品で聴き手を魅了でき、唸らせられることも演奏家にとって必要な技量であろう。ホロヴィッツはその意味でもまさに大家だったが、現在活躍しているピアニストではどうだろうか(たとえば、80歳を過ぎても何度かめの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を録音する人がいるが、それが現在の音楽の世界にとってどんな意義があるのだろう? もちろん、当人やファンにとってはしかるべき意義があるのだろうし、そのことを否定するつもりはないが……)。

その点でスティーヴン・ハフ(1961-)はまさに名人であろう。彼は本格的な作品でも見事な演奏を聴かせてくれるが、小品の演奏も実に巧みである。そんな彼の実演を聴いてみたいものだ。

 

 「悟りの窓」の向こう側に見えたものは……(下の写真は京都の源光庵。昨日出かけてきたところ)

 


 

2022年12月16日金曜日

昨日は

  昨日は「祝祭の夜  サティとフランス六人組」という演奏会を聴いてきた:https://phoenixhall.jp/performance/2022/12/15/18349/。とにかく楽しかった。企画、選曲、演奏、そして「演出」が見事に1つの場をつくりあげており、「ああ、本当によいものを聴かせて(観せて)もらったなあ」と思う。というわけで、関係者の方々に深く感謝!

 ところで、これは仏語の歌曲を中心にした演奏会だったが、日本語の歌曲でそうしたものが聴ければうれしい。が、残念ながらなかなかその機会には恵まれない。それは1つには私が出不精なこともあるが、もう1つには、そもそもそうした演奏会が少ないということもある。これまでにかなりの作品の蓄積があるのに、それを活かさないのは、演奏家にとっても聴き手にとってももったいないことであろう。

 

 

2022年12月11日日曜日

シャブリエとアンリ・ルソー

  エマニュエル・シャブリエ(1841-94 )の音楽を聴くとき、しばしばアンリ・ルソー(1844-1910)の絵が思い起こされる。両者は同時代のフランス人にして独学者、そして、ともに公務員として長く働いたのちに芸術家としてのキャリアを始めているなど、いろいろ共通点があるが、何よりも作品にどこか似たトーンを私は感じる。彼らの曲や絵は素朴で大胆、さりとて洗練を全く欠いているわけでもない。そして、不思議な味わいとユーモアがある。

 そのシャブリエの代表作《絵画的小品集》(1881)を実演で聴きたいとずっと思っているのだが、なかなかその機会にめぐまれない(もちろん、録音では繰り返し楽しんできた。たとえば、つぎのものなど:https://www.youtube.com/watch?v=4JEjDBQuzVA)。ラヴェルはうんざりするほど弾かれているのに、彼に少なからぬ影響を与えたシャブリエはといえば……。

 ところで、Youtubeを検索してみると、その《絵画的小品集》の第10曲〈スケルツォ=ヴァルス〉の動画、それも子供の弾いたものがやたらに目に付く。どうやら斯界ではこの曲は定番であるようだ。大いにけっこうなことだと思う(この曲だけではなく、他の9曲も取り上げられれば、なおのことよかろう。それらはまことに楽しい音楽なのだから)。が、それらを先に挙げたフランス人メイエの演奏と比べてみると、言語に由来するリズムとイントネーションの違いを感じさせられる。

2022年12月8日木曜日

「20世紀のグリーグ」ゲイル・トヴェイト

 先日、大学の図書館でゲイル・トヴェイト(1908-81)のピアノ曲集《ハルダンゲルの50の民謡》作品150の楽譜を借りてきて、つらつらと眺めている。これは民謡の創造的編曲であり、まさにグリーグの衣鉢を継ぐ仕事だといえよう。

幸いYoutubeにも音源があった(楽譜付き! https://www.youtube.com/watch?v=of9ey5jJ7z8)ので、それも聴いているが、何とも心安まる音楽である。これが演奏会で取り上げられれば、て私以外にも少なからぬ人が喜んで聴きに出かけるのではなかろうか(グリーグ演奏の名手、中村圭介さんあたりに期待したいところだ)。

ところで、このトヴェイトは幾度もの災難に見舞われており、作品の大半が失われたのだそうだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%88)。

「人生いろいろ」だとはいえ、お気の毒だとしかいいようがない。が、それでも現存する数少ない作品はこれからも演奏され、聴かれ続けることになるだろうから、いくら作品が現存しても全く顧みられない作曲家よりはこの人は幸せである。

 

 日本の民謡でもこうした「民謡の創造的編曲」があれば面白いだろうに。歌曲としては間宮芳生(1929-)の《日本民謡集》がある(驚くべきことに、もうじき「増補改訂版」が出るのだとか(http://shop.zen-on.co.jp/p/728141))。

が、この水準のものがピアノ曲にも欲しいと切に思う(のは私だけではあるまい)。

 

 今日は128日。81年前にあの無謀な戦争に突入した日である。そして、日本は今もそのツケをいろいろな面で払わされ続けている。

 

2022年12月1日木曜日

メモ(88)

  音を聴くことでも、楽譜を読むことでもわからないことや気づくことが実際の演奏行為の中にはある。などというと大げさだが、私ごときのど素人かつ下手なピアノでも、日々練習していると、「ああ、なるほど」と思うことが少なくない。むしろ、ささいなパッセージでも下手で何度もつっかえるがために何度も繰り返すはめになるからこそ、それだけ気づきも増えようというもの。

 

 ショパンの「革命」エチュードをいつも用いている版と違ったもので練習していたとき、「おやっ」と思う箇所があった。それは第17小節の右手第4拍にある16分音符で、普段使っているウィーン原典版ではes-c-esの和音なのだが、他の版ではそれはcのオクターヴなのだ。そして、どの版にもこの違いについての言及がない。ということは、ウィーン原典版がたんにミスをしているだけなのだろうか(ちなみに、この版が底本にしているフランスでの初版譜でもcのオクターヴになっている)。

2022年11月28日月曜日

ブゾーニのヴァイオリン・ソナタ第1番

 金澤節さんは「中村攝」時代にヴァイオリニストの西田博氏とともにブゾーニのヴァイオリン・ソナタ2曲を録音している。これはまだLP盤の頃だったが私は発売と同時に購い、愛聴していた。が、いろいろあって手持ちのLPは手放してしまい、この名盤もずっと聴けないままだった。

 が、今日、それを本当に久しぶりに聴くことができたのである。実はそのLPは一度CD化されており、それを(すでに生産中止なので)中古で購ったのだ。一聴して、昔日の感動が全く色褪せていなかったことがうれしかった。とりわけ、第1ソナタの演奏についてはこれ以上のものを知らない。

2ソナタは今や普通のレパートリーになってしまい、あれこれ録音があるが、第1はまだそれほどブゾーニの個性がはっきりしていないこともあってか、今ひとつ人気がないようだ。とはいえ、私はこのソナタが大好きで、これまでに何種類かの録音を聴いている。が、それぞれに悪い演奏ではないものの、どこか「ぬるい」感じがして気に入らなかったのだ(実際、それらの演奏はテンポがいくらか遅めだった。その一例:https://www.youtube.com/watch?v=W1jrLuSs1kw)。その点、今日聴いた西田・中村コンビの演奏はまことにスリリングで、つい2回繰り返して聴いてしまった。この名演奏をお聴かせできないのがまことに残念である(興味のある方は中古盤を探されたい)。

ところで、この第1ソナタ第1楽章の冒頭にピアノが奏でる音型はそれ以前の作品、ピアノ・ソナタヘ短調の主題に由来する(https://www.youtube.com/watch?v=d5fEcwWX5ZM。ちなみに、この録音も残念ながらテンポが遅い)。アントン・ルビンシテインに献呈されている作品だが、これもなかなかの名曲である(終楽章にはベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の影響も)。こうしたものが聴けるのならば、私は喜んで演奏会場へ出かけるのだが……。

 

ブゾーニに関して日本語で読める文献は甚だ少ない。彼自身の文章の翻訳は(戦前に出たものを除けば)もちろん、きちんとした評伝も1つもない。今ならばある程度は読者が得られると思うので、まずは翻訳の登場が望まれる。

その翻訳としては、ブゾーニ自身の著作に加え、ブゾーニ版バッハの《平均律クラヴィーア曲集》の全訳もあればよいと思う(後者の編集は第1巻と第2巻ではコンセプトがかなり異なっており、なかなかに面白い)。また、アントニー・ボーモントの『作曲家ブゾーニ』(1986)は今となっては少し古いが翻訳される価値は十分あるし、ラインハルト・エルメンの『フェルッチョ・ブゾーニ』(1996)もコンパクトにまとまった好著である。

というわけで、若者の仕事に期待したい(私ももう少し若ければ挑戦するのだが……)。

 

2022年11月25日金曜日

ジャイアントロボ

   私には妙な癖がある。それは知人を何か特定の音楽と結びつけてしまうことだ。これは考えてそうするのではなく、いつの間にか頭の中で自然にその結びつきができてしまい、しかも一旦そうなると両者が切り離せなくなるから困る。しかも、その結びつきは必ずしもその人のイメージとぴったり合致しているわけではない。むしろ、「なぜ、よりによってこの曲がこの人と……」と自分で困惑することの方が多い。

テレビドラマ『ジャイアントロボ』の主題歌もその1つ(https://www.youtube.com/watch?v=meHiyWqlJvk)。なぜかこれのイントロと歌い出しが私の頭の中では某氏と結びついてしまっている。先日、この曲が急に頭の中で鳴り響き、それに伴い、もはや疎遠になってしまった某氏のことも懐かしく思い出すこととなった。

 

ところで、この『ジャイアントロボ』だが、調べてみると、放映期間は196711月から19684月となっており、1966年生まれの私がリアルタイムで見たはずがない。にもかかわらず、この主題歌はなんとなく知っていたわけだから、再放送でも見たのだろうか。とにかく、まことにインパクトのあるゴージャズな曲であり、今聴いてもよくできていると思う。

これを歌っていたのが「東京マイスタージンガー」というコーラス・グループで、『キャプテンウルトラ』の主題歌(https://www.youtube.com/watch?v=xxTiP9xEY0w)や『ウルトラセブン』の「ウルトラ警備隊の歌」(https://www.youtube.com/watch?v=z-bGeKTROy8)も彼らが担当している(と、今回調べてわかった)。これらの曲は家にシングル盤があったので子どもの頃に大いに親しんでいたものである。やはり今回聴き直してみたが、素直に「いいなあ」と感じる。思えば、私の音感の土台はたまにしか聴く機会のなかったクラシック音楽の名曲などではなく、幼年、少年時代に意識することなく覚えることとなったこの種の音楽で養われたのであろうか(頭に残っているものは、その調性までしかと覚えている)。

2022年11月18日金曜日

驚き

  ある演奏家が公開レッスンの場で1人の生徒が持ってきた作品について「そんな曲よりももっと優先されるべき曲があるはずだ」という類のことを言ったと伝え聞き、かなり驚いた。なるほど、人生というものは短いので「あれもこれも」というわけにはいかず、どこかに的を絞らなければならないという点ではこの演奏家の言うことも理解できる。が、その「優先されるべき曲」、すなわち「名曲」の選択は人それぞれのはずで、自分の価値観を人に押しつけようとしてはいけない。それがたとえ善意からなされた発言だとしても。

また、「名曲」の範囲を狭く限定することは、演奏家にとって得策ではない。というのも、皆が同じような曲を取り上げるとすれば、自分の演奏のセールス・ポイントをはっきりさせることが難しくなるからだ(もちろん、ごくごく限られた「天才」は別であるが……)。そして、いつでもどこでも同じような作品が大して代わり映えしない演奏でしか聴けないとなれば、聴き手の足が演奏会場から遠のくのも道理である。

もっとも、昔に比べれば演奏会や録音などで取り上げられる作品の多様性は随分増している。もはや「定番名曲」だけでは(西洋芸術)音楽界を維持できないことに少なからぬ演奏家(や興行主)が気づいているからだろう。そして、それだけになおのこと、件の演奏家の発言には驚かされるわけだ(が、この人が定番名曲しか取り上げないとしても、そのこと自体を非難するつもりは全くない。それは「生き方」の問題なのだから)。

 

 

2022年11月15日火曜日

さわると秋がさびしがる

  先日、散歩道の紅葉を眺めていたとき、ふと「さわると秋がさびしがる」という一節が頭に浮かんだ。「そうだ、確かそんな題名の詩があったはずだ」と記憶の糸をたぐりよせてはみたものの、それ以上のことは思い出せない。そこで帰宅後に調べてみると、詩を書いたのはサトウハチローで、それに中田喜直が曲をつけていたことがわかった(この歌自体の解説:https://ysfc.weblogs.jp/chronofile/2006/10/post_4972.html、そして、歌の音源:https://www.youtube.com/watch?v=xXqaBSS4yrY)。 19678~9月にNHKの『みんなのうた』で初放送とのことだから、それなりに古い歌だということになるが、私は曲も詩の内容も全く知らなかった。にもかかわらず、曲名だけがなぜか頭の中に入っていたのである。

 その先日の散歩の際、件の題名のみならず、それに付随するかたちでなにやらヴァイオリンのフレーズも浮かんだ。「秋の日の ヴィオロンの……」というわけではないが、とにかく、ヴァイオリンがフラジオレットで奏でる音楽が確かに頭の中で鳴り響いたのである(それはそののち知った「童謡」の雰囲気とはおよそ異なるものだった)。その具体的な中身はもはや覚えておらず、雰囲気だけが脳裏に留まっているのだが、散歩中にまた、かすかな「ヴィオロンの」音が聞こえてくるかもしれない。