2026年1月25日日曜日

ルベルト・ジェラルトの生誕130年

  昨晩、久しぶりにルベルト・ジェラルト(1896-1970)の第2交響曲(1957-59)を聴き直したが、面白い曲だと改めて感じた(https://www.youtube.com/results?search_query=roberto+gerhard+symphony+2)。それは一方では同時代の若者の作品に観られる「音響」志向を示しつつも、他方では師のシェーンベルクのように「土台としての古典」を決して軽んじていない。それゆえ、そこには両者のせめぎあいがもたらす(よく言えば)緊張や(悪く言えば)綻びが生じるわけだが、ジェラルトはそこが不満だったのだろうか、のちにこの曲の改作を試みっている(が、未完に終わった)。私はむしろその緊張こそがこの交響曲の面白さだと思うのだが、どうだろうか。

 ところで、このジェラルトは今年生誕130年だ。だからといって、そのために彼の作品がいっそう積極的に取り上げられることはないだろうが、私は勝手に「ジェラルト生誕130年」を祝いつつ、彼の音楽にもっと親しむことにしたい。

 

 今日で愛犬シャーロットが我が家にきてちょうど9年が経った。その間に実にいろいろなことがあったが、その存在にどれほど心癒やされ、救われたことか。というわけで、この愛犬に心からの感謝を。


 

2026年1月22日木曜日

「摂州合邦辻」

  今年初の音楽関連のお出かけはクラシック音楽ではなく文楽だった。今日、国立文楽劇場で第1部(https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/2026bunraku01/)を妻とともに観て(聴いて)きたが、すばらしかった。

 元々は第2部に行きたかったのにうまく席が取れずに第1部にしたのだが、これが「大当たり」。というのも、「摂州合邦辻」が何とも面白い演目だったからだ。その筋書きは些か荒唐無稽(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%B7%9E%E5%90%88%E9%82%A6%E8%BE%BBであるにもかかわらず、劇として不思議な魅力があるのに加えて、今日の演者の技芸がまことに見事だったのである。とりわけ、「切」での豊竹若太夫と鶴澤清介のコンビには圧倒される。「前」での豊竹呂勢太夫と鶴澤清治のコンビもよかった。

ちなみに、この2組が登場したとき、後ろの席から「待ってました!」「呂勢太夫、清治」「若太夫、清介」と、そして、最後には「大当たり!」と掛け声があった。文楽に古くから親しんでいる見巧者の方のものなのだろう。ともあれ、それを耳にし、私も気分が盛り上がった。いやあ、文楽って本当にいいもんですね。

2026年1月18日日曜日

ヨゼフ・ホフマンも生誕150年

  ピアニストのヨゼフ・ホフマン(1876-1956 )も今年生誕150年だった。ラフマニノフが好敵手とみなした名人である。

 私がホフマン(の演奏録音)を初めて聴いたのは中学生のときだ。昔のピアニストを特集した番組でのことで、演目は彼の師の1人、モリッツ・モシュコフスキの《スペイン奇想曲》だった(https://www.youtube.com/watch?v=rYc15E7g5Ho&list=RDrYc15E7g5Ho&start_radio=1。ちなみに、現在最高のピアニストの1人であるスティーヴン・ハフもこの曲を録音しているが、その内容から判断するに、彼はホフマンのこの曲の演奏をかなり研究しているようだ)。とにかく圧倒されてしまい、この大ピアニストをもっと聴いてみたいと思った。

 だが、当時、すなわち、1980年代の初めにはそれは無理なことだった。日本で手に入る録音など皆無に等しかったのだから。いや、日本だけではない。外国でも果たしてどれだけの音源が当時入手可能だったことだろうか。現役のLPは基本的には現役の演奏家のためのものだったのである(もちろん、過去の名演奏家の録音も販売されていたが、よほど「売れる」もの以外は「ついで」であった)。

 ところが「商品」として過去の録音に価値が見出されたり、CD時代になってディスクの製造コストが下がったりして、あるいはその他にも理由があったのだろうが、ある時期から昔々の名演奏の録音が容易に入手できるようになった。そして、インターネットがそれに拍車をかけた。

 というわけで、上にあげたような録音がかんたんに聴けるようになり、以前ならば文字情報で「隔靴掻痒」にしか知りようがなかった演奏のありように(録音によるものだとはいえ)実際に触れ、その技芸を味わうことができるようになったわけだ。

さて、今現役の演奏家たちの録音がたとえば「生誕150年」を迎えたときにこのホフマンのように聴かれているだろうか? もちろん、現在にもすばらしい演奏家はそれなりにいるに違いない。が、そもそも演奏家の数とその録音の数がホフマンの時代に比べれば格段に多いので、相当熾烈な競争が繰り広げられるそうだ(また、インターネット環境も今と同じだという保証はどこにもない)。

2026年1月16日金曜日

ファリャの生誕150年

  今年生誕150年の大物のことをすっかり忘れていた。それはマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946。ということは、今年没後80年でもある)。言うまでもなくスペイン近代音楽の巨匠だ。

 もっとも、私がファリャの音楽をほんとうに愛するようになったのはそう昔のことではない。たとえば、名作とされる《スペインの夜の庭》などは、ある時期まで今ひとつ好きになれなかったくらいだ。

 が、今は違う。幸い国内版の楽譜がいろいろ手に入るようになり、それらを眺めつつ作品を聴いていると、この作曲家のあまりに渋い技と芸に魅せられずにはいられない。

 残念ながら日本語で読めるファリャ文献はほとんどない。以前は興津憲作『ファリャ 作品と生涯』(音楽之友社、1987年)があったが、版が途絶えて久しい。となると、この記念すべき年に新たなファリャ本が刊行されるか、少なくとも興津本が復刊されるかして欲しいところだ(以前、Nancy Lee HarperManuel de Falla : his life and musicLanham, Md. : Scarecrow Press , 2005)をぱらぱらとめくってみたときに、「これは誰かが訳してもよいのになあ」と思ったが、昨今の出版事情では難しいかもしれない)。  

 

2026年1月12日月曜日

メモ(152)

  広義の「調性」が「中心音を持つ」という意味だとすれば、当然、機能和声の成立以前の旋法音楽や解体以後のある種の音楽もその射程に含まれることになる。そして、この意味で調性という語が用いられる場合も少なくない。

 が、そうはいっても、やはりこの語は「機能和声に基づく音楽」という意味で用いられる場合が圧倒的に多い。それはおそらく、用語がきちんと整備されていないからであろう。ならば、時期による「調性」のありようの違いを示す語を付け足せば、この問題は改善されるのではないだろうか。

 そこで試案を示したい。まず、機能和声に基づく音楽の場合には「機能調性」とし、それ以前の時代の旋法音楽の場合には「未(あるいは「前」)機能調性」、そして、以後の時代のある種の音楽については「脱機能調性」とすれば、どうだろう。

2026年1月10日土曜日

ちょっとしたファンタジー

  ロマーン・インガルデン(1893-1970)の「音楽作品の同一性」についての論において、音楽作品とは「さまざまな現実化の可能性の束である」(福田達夫の論文「演奏の美学のために」での表現)だとされる。この場合の「現実化」とはそのつどの演奏や聴取のことであり、それによって作品の不確定なありようがあくまでもその場限りのものとして確定されることになる。

最近、ふと思ったことだが、こうしたインガルデンの論はどこか量子力学でいう「重ね合わせ」と「観測問題」を連想させる。もちろん、両者の論が全くの別物であることは重々承知している。ちなみに、インガルデンがその論を構想・執筆しはじめた時期(論の末尾には「パリ1928―ルヴフ  1933―クラクフ 1957」と記されているが、この日付のうちのはじめの2つ)はまさに量子力学がかたちをなしていった時期とほぼ一致する。くどいようだが、だからといって両者に直接の繋がりがあるということでは断じてない。が、その時期の一致ということに、私は面白い偶然以上のものを感じてしまう。

2026年1月9日金曜日

フォーシェの和声課題の実施例

  たまたま次のものをYouTubeで見つけた:https://www.youtube.com/watch?v=xmtj0hqvMxY&list=RDxmtj0hqvMxY&start_radio=1

フランスの作曲家ポール・フォーシェ(1881-1937)の和声課題の実施例である。実に美しい音遣いであり、演奏もすてきだ。

フォーシェは「作曲家」というよりもむしろ、「音楽のエクリチュールの教師」と言う方が正確かもしれない。パリ音楽院で和声の教授を務め、優秀な弟子がそこからは輩出している(日本にフランスのエクリチュールの種を蒔いた池内友次郎(1906-91)もその1人である。なお、その池内の後継者たる矢代秋雄(1929-76)がパリ音楽院で師事したのはフォーシェの弟子、ジャック・ドゥ・ラ・プレール(1888-1969)だった。このドゥ・ラ・プレールの和声課題集も実に面白い。そこには著者自身の課題の実施例のみならず、それを他者が実施したもの――たとえば、師のフォーシェによるもの――や、逆に他者の課題の作者による実施例 ――たとえばフォレ――と著者の実施例が収められており、1つの課題について違った角度から学ぶことができる)。

 そのフォーシェの業績を知る手がかりとなるのが、2巻からなる和声課題集だ。私はそのうち1冊、『40の和声課題集』しか内容を知らないが、見事な「音楽作品」である。上の動画でなされている実施もその中の1題だ。フォーシェ自身の実施と見比べると(当然ながら)いろいろ違いがあって面白いし、「なるほど、こういうふうにもできるのか」と教えられもする。というわけで、上記の動画の作成者に感謝。

2026年1月8日木曜日

別のミニピアノ

  「ミニピアノ」でインターネット検索すると、出てくるのは子ども向けの「トイピアノ」である。もちろん、これはこれで面白い楽器だと思う(ジョン・ケィジの《トイピアノのための組曲》は佳曲である:https://www.youtube.com/watch?v=WC78T-i6pow&list=RDWC78T-i6pow&start_radio=1

 だが、私が最近心惹かれているのは別のミニピアノだ。こちらは仕組みの面では普通のピアノと同じなのだが、鍵盤の数が少ない。戦前の日本ではかなりの数のミニピアノが――フルサイズのピアノの代用品、あるいは、予備的段階のものとして――つくられたそうだが、今やその現物にはなかなかお目にかかれない。ところが、先日(このブログでも話題にしたが)アトリエ・ピアノピアでその稀少な楽器に触れることができたのである。なるほど、88鍵盤の現代のピアノに比べて鍵盤数がおよそ半分のミニピアノにはいろいろと制約がある。が、このミニピアノでこそ表現できる音の世界があるようだ(フォルテピアノ奏者、川口成彦氏による音例:https://www.youtube.com/watch?v=U0Q8scvyuE0&list=RDU0Q8scvyuE0&start_radio=1)。そして、そこに私は魅了され、すっかり心奪われてしまったのである(この楽器にも打ち込んでいる川口氏は素敵なアルバムを1枚録音しているが、これを聴いて私のミニピアノ愛はいっそう強まった:https://item.rakuten.co.jp/naxos/musis04/)。

  

2026年1月6日火曜日

ブリトゥンの没後50年

  今年はベンジャミン・ブリトゥン(1913-76)の没後50年であった。すっかり忘れていた。彼は生前にも高く評価されていたが、当時はまだ「現代音楽」に勢いがあったために、その評価も十分なものだったとはいえないのではないか(かく言う私も、このブリトゥンの偉大さに気づいたのは「現代音楽病」が癒えたのちのことである)。もちろん、今はそうではあるまい。

 このブリトゥンと同年生まれなのがポーランドの「現代音楽」の名作曲家、ヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-94)である。2人の作風の隔たりの大きさは、まさに20世紀という時代の一面を映し出しているように思われる(ちなみに、私はどちらの作曲家も大好きだ。彼らの作品を並べた演奏会があれば、喜んで聴きにいくのになあ)。

2026年1月4日日曜日

バルトークの当たり年

  今から100年前の1926年にバルトークは《戸外にて》《ピアノ・ソナタ》《ピアノ協奏曲第1番》などの名曲を完成させている。ものすごい「当たり年」だと言えよう。そして、これらは普通のレパートリーとして定着して今日に到る。

 100年も生き残る音楽作品が果たしてどれほどあるものだろうか。1926年作限らず、20世紀の作品について、いろいろと調べてみれば面白かろう。

 100年といわず、50年ではどうか? だが、1976年に生まれた音楽作品の中で今日でも演奏されているものは、1926年作よりも少ないにちがいない。

 いわゆる「現代音楽」作品の中で、いったいどのようなものがレパートリーとして生き残っているのだろうか。そして、その「生き残り」の条件とは何だろうか。

2026年1月3日土曜日

「世界一面白くない」会社(!?)から出たCDセット

  昨年末にフリードリヒ・グルダ(1930-2000)が生前に発表したディスクをかなりのところまとめたものが出ており、それを今楽しく聴いている。彼はクラシックとジャズの2つの領域を行き来しつつ独自の芸風を築いたピアニスト=作曲家だが、たぶん、これからもその録音は聴き継がれることだろう。 

 ところで、そのCDセットを出したのはドイツ・グラモフォンだが、グルダは生前、そのレィベルについて、こう言っている(もちろん、それはあくまでもグルダ個人の評価だ):

 

 あそこの路線は世界一面白くない、。[……]あそこにはあそこの路線があって、そこから外れることは絶対しない。そんなわけで、あそこじゃあ、グルダ氏はほんの端っこにいるのがせいぜいで、ほんの時たま会社のイメージに合致するだけなんだ(フリードリヒ・グルダ『グルダの真実――クルト会社・ホーフマンとの対話』(田辺秀樹・訳)、洋泉社、1993年、612頁。なお、同書の新版がちくま学芸文庫から出ている)。

 

いやはや、何とも酷い物言いである。が、事実、グルダが同社で録音したディスクは10枚に満たず、大半のディスクは他のところから出ている。にもかかわらず、今回出たセットではその「他のところから出ている」ものについても皆、ドイツ・グラモフォンの印が付けられている。つまりは、同社が権利を取得して、自社製品として出したわけだ(ちなみに、昨年早々にグルダのパートナーで彼の遺産管理をしていたウルズラ・アンダースが亡くなっている。このこととこのディスク・セットの登場は無関係ではあるまい)。さて、泉下のグルダはこれをどう思うだろうか。まあ、無頼派の彼のことだから、そんなことは気にしないかもしれないが。

2026年1月2日金曜日

軌道修正

  ああ、何としたことか。『ミニマ・エステティカ』と題する書がすでに出ていたとは……(https://cir.nii.ac.jp/crid/1971993809756510863)。まあ、誰かがすでに考えていて当然の書名だったから、仕方あるまい。

 というわけで、「はじめに」の部分をすっかり書き改めるとともに、新たな書名を考えねばなるまい(副題に予定していた「音楽する人のための美学」でも悪くないが、もう一ひねりしたいところだ)。が、そのことで基本的な方向が変わることはないので、とにかくどんどん書き進めて、今年こそは何とかかたちにしなければ!

 

 

2026年1月1日木曜日

2026年の抱負

  2026年が始まった。恐ろしいことに私は今年還暦を迎える。振り返れば「恥の多い生涯を送ってきました」のだが、時計の針は戻せない。というわけで、これからの時を大切にして「今を生きる」しかない。

今年の目標は2つ。1つは長年の懸案『ミニマ・エステティカ』を仕上げることであり、もう1つは松本民之助研究を進めて何らかのアウトプットすることである。後者については諸般の事情で先延ばしにしていたのだが、もうそんなことは言ってはいられない。とにかく、今「やるしかない!」である(さらに言えば、Noteでもう少しきちんとした文章を書きたい。これは昨年すでに言っていたことだが、今年こそは!)。

 

さて、今年はマイルズ・デイヴィスの生誕百年。なので、朝一番に彼が奏でるマイケル・ジャクソンの名曲〈ヒューマン・ネイチャー〉を聴く。年明けにふさわしいすばらしい音楽だ。

「生誕百年」を記念するのはマイルズだけで私には十分なのだが、他にもハンス・ヴェルナー・ヘンツェやクルターグ・ジョルジュ、そして、ジョン・コルトレーンなどのことも気になるところだ(ちなみにクルターグはまだ存命!)。