2019年12月31日火曜日

2019年も終わり

 2019年も今日で終わり。今年もいろいろなことがあった。やりたこと、やらねばならないことがうまくできなかった年だったが、来年はもっともっとよい年にしたい(ホームページの作成も![追記:これはまだ実現していないが、いつか……])。人生の砂時計は確実に時を刻み続けているのだから、立ち止まっている暇はない。幸い、これからの目標が明確になったので、とにかくそれに励むことにしよう。

 来年は「ベートーヴェン・イヤー」ということになっている。それはそれでけっこうだが、もし、音楽会の企画がベートーヴェン優勢になりすぎるとすれば、クラシック音楽界の未来は限りなく暗いと言ってよい。他にも優れた作曲家は何人もおり、作品もいろいろあるのだから。さて、果たしてどうなることやら。

[追記:後日書いた次の投稿をも参照のこと:https://kenmusica.blogspot.com/2023/05/2019.html]

 過日、大学の図書館でノエル・ギャロン(1891-1966)のピアノ曲をいくつか借りてきた。眺めてみると、どれもよい作品である。ギャロンは作曲家としてよりもソルフェージュ、和声や対位法等の教師として高名だった人だが、作品を見る限りでは作曲家としてもなかなかの存在だと思う。

2019年11月28日木曜日

エッセンシャル版ベートーヴェン=シュナーベル

 往年の名ピアニストにして作曲家のアルトゥア・シュナーベルが編集したベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜はいろいろなヒントに満ちている。だからこそ、今でも版を重ね続けているのだろう。
 それゆえ、その翻訳版があってもおかしくはない(どころか、有益だろう)。が、もし私が翻訳をするならば(その意志はないので、あくまでも仮定だが……)、全訳はしない。というのも、楽譜に付けられたシュナーベルによる夥しい註の少なからぬものは、過去の種々の版への批判的なコメントだからだ。なるほど、そうした版が現役だった頃にはシュナーベルのコメントには意味があっただろう。しかし、そこで触れられている版は今やほとんどがお蔵入りの状態なので、それへの批判はいわば「徒手空拳」のようなものになってしまっている。そのため、今日でも有益な註(あるいは1つの註の中でも有益な部分)を取捨選択して訳すだろう。つまり、いわば「エッセンシャル版」をつくるわけだ。

 この「エッセンシャル版」の楽譜本体には、今日の原典研究を参照した必要最小限度の註も必要となろう。すなわち、シュナーベルが演奏のために加筆した部分は温存しつつ、彼が校訂した楽譜本体については必要な訂正を施す、ということだ。さて、誰か、この企画に挑戦する奇特な人士はいないものか。

 翻訳には相変わらず苦しんでいるが、何とか年内には仕上げねば!

 忙しいときほど、却っていろいろなアイディアが浮かぶもの。先日も大学へ向かう途中に電車の中でパッと1つひらめいた。その実現はまだまだ先になりそうだが、うまくいけばかなり面白いものができあがるだろう。
 それとは別に少し前に思いついたのが『音楽の語り方』という本のアイディアである。これは『演奏行為論』の中で触れた「言及ゲーム」の考え方を展開し、コミュニケーションと演奏ゲームの実践の問題を説くものとなろう。そこでは一切註はつけず、できるかぎり平易に問題を論じたい。これは来年になったら書き始めてみよう(どこかが出してくれるあてがあるわけではないが……)。
 

2019年11月11日月曜日

調和に満ちた「プレイ」

 私もベートーヴェンの音楽を愛することでは人後に落ちないつもりだ。が、だからこそ、彼の「名曲」ばかりを取り上げた演奏会へはあまり行かない。新鮮な気持ちで作品や演奏に向き合うには、(少なくとも演奏会では)「ごくたまにしか聴かない」ことが必要だからだ。それゆえ、たとえば、交響曲の演奏会ならば、あと10年くらいは行かなくてもかまわないと思っている。そして、それくらいたってから実演を聴けば、大いなる感動を味わうことができるだろう、とも。

 この理屈から言えば、「ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会」などというのは、私にとっては基本的には「避ける」べき類のものである。が、物事には例外がつきもの。アンドラーシュ・シフが自身が結成した楽団とともに演奏をするとあらば、これは聴き逃せない(http://www.izumihall.jp/schedule/concert.html?cid=1856)。……というわけで、9、10日と大阪のいずみホールに大いなる期待を持って出かけてきた。そして、深い感動を味わわせてもらった。

 一言でいえば、ベートーヴェンの凄さが改めてよくわかる演奏だった。たとえば、初日には第2、3、4番が弾かれたが、まず、第2番ではハイドンやモーツァルトの強い影響の中にも若きベートーヴェンの個性が強烈に感じられる。そして、続く第3番ではそこで新たに切り開かれている全く新しい劇的な音の世界に驚嘆させられ、第4番ではそこにさらなる広がりと深み、そして軽やかさが加わっており、心底魅了された。2日目の第1、5番でも同様。

 もちろん、これには演奏の見事さが大いに与っている。シフのピアノについては今更多言を要すまい。それに加えて興味深かったのは管弦楽とのやりとりだ。シフの仲間が集った楽団「カペラ・アンドレア・バルカ」(そのコンセプトについては上記リンク先を参照のこと)が独奏者とともに「作品」を軸に繰り広げたのは調和に満ちた「プレイ」である。一糸乱れぬ管弦楽がピアノと「対決」したり、主導権争いをしたりするのではなく、また、昨今少なからぬ影響力を持っているHIPの流儀にもさほどとらわれず、彼らは時にはごくささやかな(指揮者の「統制」が行き届いた管弦楽にはない、が、音楽としては全く問題のない)ほころびを見せながらも音楽として格段に充実した時を紡ぎ出す。そして、大昔の作品であるにもかかわらず、それは「今」の音楽として「も」説得力を持って鳴り響く。だから、聴いていてとても楽しい。

ともあれ、この演奏があまりに見事で面白かったものだから、すべてを聴き終えたのち、こう思った。「ベートーヴェンのピアノ協奏曲の実演は最低でもあと5年、いや、もしかしたら10年は聴く必要はあるまい」と。というわけで、いつものように、すべての演奏者とこの演奏会の実現に関わった方々に深く感謝し、お礼を申し上げたい。

2019年10月30日水曜日

絶妙のバランス感覚

 あれこれ(気分の上でも)忙しい日々が続くが、それでもやはり聴き逃せない演奏会というものはある。先週末、26日に大阪のザ・フェニックスホールで催された「伊東信宏 企画・構成 土と挑発:郷古廉&加藤洋之 デュオリサイタルがそれだ。

 恥ずかしながらヴァイオリンの郷古さんのことはほとんど何も知らず、名前を何かで目にしたことがあるくらいだった(私は作曲家にしろ、演奏家にしろ、「旬の」情報を積極的に集めることはせず、偶然の出会いに任せている)。が、今回のパートナーのピアノの加藤さんの演奏はこれまでに何度か聴き、深い感銘を受けていたので、「この人と組むのならばタダモノではないに違いない!」と思い、迷わず聴きに行くことに(ちなみに、こうした「芋づる式」の探し方は「当たり」を引く可能性が高い)。果たして、やはりタダモノではなかったのである。結局、2人の演奏に最初から最後まで圧倒され続けた。とりわけ、作品が要求する、ともすると矛盾を生み出しかねないものを絶妙のバランスでまとめあげ、極めて説得力のある音楽として演じて見せるさまに。

 演目は次の通り: 

▼ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
▼
プーランク:ヴァイオリン・ソナタ FP.119


▼
イザイ:子供の夢 作品14
▼
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ 第1番 Sz.75 BB84        

 ヤナーチェクの作品では得てして衝撃的な「事件」が次々と起こる。が、それだけにそれへの対応に追われる演奏が少なくない(それ以前のレヴェルで、「事件」を平凡な出来事にして丸く収めてしまう演奏や、逆に、過度に劇的なものにしてしまって収集がつかなくなる演奏もあるが……)。そうした諸々の事件を繋ぐ物語をきちんと描き出せるかどうかが演奏の成否を握る鍵となる。その点、このデュオは実に見事。このソナタで起こる数々の事件を鮮やかに示しつつ、驚くべき結末まで聴き手を導いてみせる。

 プーランクの音楽の多くは表面的には軽妙洒脱だが、一皮めくるとなかなかに「怖い」ところがある。そして、ときにはそれをはっきりと示すものも。このヴァイオリン・ソナタもそうした作品の1つだろう。だが、それでもやはりプーランクの音楽。やりすぎると野暮になる。さりとて、お上品にやっていたのではこのソナタは台無しだ。が、ここでも2人のバランス感覚は絶妙。

 イザイ作品は今回の緊張に満ちた演目の中では「つかの間の休息」を与えてくれる小品。とはいえ、この曲の夢幻的な感じは続く冒頭で(ほんの少しではあるが)似た雰囲気を漂わせるバルトーク作品への「前奏曲」としても悪くない。

 そのバルトークだが、郷古&加藤デュオは作品が持つラプソディックな響きとまことに緻密な構成をいずれも全く損なうことなく、活き活きとした音楽を聴かせてくれた。

 ともあれ、実に素晴らしい演奏会だった。こんな2人がたとえばエネスクの第3ソナタやシルヴェストロフの《追伸》などを演奏したらどうなるのだろう? あるいはブゾーニの2曲のソナタなども。




2019年10月5日土曜日

おなじみの名曲がかくも新鮮に

 まだ少しばかり暑いが、それでも気分は秋。すると室内楽が聴きたくなる。そこで昨晩はハーゲン四重奏団(於:いずみホール)を聴いてきた。演目は次の通り:



ハイドン: 弦楽四重奏曲 第77番 ハ長調 op.76-3 「皇帝」
バルトーク: 弦楽四重奏曲 第3番 BB93 
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 op.29-1, D804「ロザムンデ」



弦楽四重奏曲の定番2曲の間に些か刺激的な作品を1つ挟んだ、巧みな選曲である(バルトーク作品ももちろんこの曲種では名曲としての地位を確立しているものの、少なからぬ聴き手にとってはまだ新鮮に聞こえるはずだ。かく言う私にとってもまた)。

 もっとも、これを「巧みな選曲」だと言えるのはハーゲン四重奏団の演奏が見事であればこそ。お決まりの名曲に対しては聴き手の耳は耐性ができており、ちょっとやそっとのことでは驚きもしなければ感動もしないが、昨晩の彼らの演奏はまことに新鮮に響き、それゆえに感動をもたらすものだったからだ。

 たとえば、「皇帝」四重奏曲。ハイドンの少なからぬ作品の常として、この曲にもあれこれ面白い仕掛けがなされている。が、そうした仕掛けに対する聴き手の驚きは作品を知るにつれてどんどん小さくなっていく。音楽の進行の中で「次はどうなる」かが予めすべてわかっているからだ。ところが、昨晩の演奏では、その「わかっている」はずのものが耳新しく聞こえたのである。だから、種々の仕掛けも実に面白く、最後までどきどきしながら作品を楽しむことができた。そして、これはシューベルトの場合でも同様。あの長大な作品がめったに演奏されないためにあまり耳になじみのない作品のように聞こえ、音のドラマの展開に一喜一憂させられる。

ハーゲン四重奏団は何も変わったことをしているのではない。作品をきちんと解釈して、しかるべき現実の鳴り響きを与えているだけである。が、決してたんなる何かの再現ではなく、あくまでも生きた音楽としてだ。

なお、バルトーク作品の演奏も実に見事。音楽はまことに生々しかったが、100年近い昔の作品などではなく、あたかも現在の世界の混迷を描き出しているかのように聞こえもする。

ともあれ、弦楽四重奏という媒体とその名作の魅力を存分に味わわせてもらった(どうもありがとうございました)。

2019年10月3日木曜日

待望の完結編

 中野慶理先生のスクリャービンのピアノ・ソナタ全集完結編がついに出た:https://www.hmv.co.jp/artist_スクリャービン%EF%BC%881872-1915%EF%BC%89_000000000021454/item_ピアノ・ソナタ全集-第2集-中野慶理_10174258

昨年の『スクリャービン:ピアノ・ソナタ全集Ⅰ』以来、その登場が待ち遠しかったものである。

 その『Ⅰ』には第1、2、5、7、9番と小品数曲が収められており、演奏の完成度の高さもさることながら、スクリャービンの独特の世界を見事に描き出されていることにただただ感嘆させられた。だが、今回の『Ⅱ』(第3、4、6、8、10と小品数曲を収録)にはそれをさらに上回る驚きが……。

 何よりも惹かれたのは音の自由な浮遊感だ。スクリャービンの音楽、とりわけ後期作品の演奏ではこの点が極めて重要なのだが、まことに複雑に書かれた音のありよう――独特のポリフォニー、変幻自在のリズム、素早い状態の変化、等々――がピアニストにその実現を容易には許さない。その点、中野先生の演奏では見事に音が宙を自由に舞っている。このことは『Ⅰ』の演奏についても言えることだったが、この『Ⅱ』ではその度合いがさらに増しており、そのことに私は胸を打たれずにはいられない。

 もちろん、ただ音が自由に浮遊するだけでは不十分だ。スクリャービンの音楽はまことに緻密に構成されており、そうした音楽の組み立てとドラマを説得力のあるかたちでピアニストは描き出さねばならない。この点については、それなりに巧みに聴かせるピアニストは(多くはないにしても)少なくはない。が、そこに浮遊感をもたせられる演奏家となると、これはあまりいないようだ。そして、今回の中野先生の演奏はその希有な例だと言えよう。

 CDに収められた演奏はどれも見事だが、私個人の好みで言えば、第8番にもっとも心惹かれる。軽やかな音の舞いとその舞台となる堅固な音の構築に耳を奪われつつ、最後にはまさに忘我の境地に誘われるのだ。聴き終えても「我」を取り戻すのにしばし時間を要するほどに。また、ともすると熱演・力演に陥りがちな第3番でのえもいわれぬ軽やかさと抒情性も好ましい。というわけで、スクリャービン・ファンはもちろんだが、むしろ、彼の(とりわけ後期の)音楽に馴染みのない人に大いにこの素晴らしいCDをお勧めしたい。


2019年9月23日月曜日

メモ(1)

 過去にどれほど栄華を誇ったものであっても、イノヴェーションがなければどんどん衰退していく。西洋芸術音楽もまた然り。
 それは何も音楽を供給する側だけの問題ではない。受け手(聴き手)の側にもイノヴェーションの余地はあるのではないか。聴き手はたんなる「お客様」ではなく、よい意味で音楽の場に積極的に関わる「ゲームの参加者」たりうるはずだ。