2019年12月31日火曜日

2019年も終わり

 2019年も今日で終わり。今年もいろいろなことがあった。やりたこと、やらねばならないことがうまくできなかった年だったが、来年はもっともっとよい年にしたい(ホームページの作成も![追記:これはまだ実現していないが、いつか……])。人生の砂時計は確実に時を刻み続けているのだから、立ち止まっている暇はない。幸い、これからの目標が明確になったので、とにかくそれに励むことにしよう。

 来年は「ベートーヴェン・イヤー」ということになっている。それはそれでけっこうだが、もし、音楽会の企画がベートーヴェン優勢になりすぎるとすれば、クラシック音楽界の未来は限りなく暗いと言ってよい。他にも優れた作曲家は何人もおり、作品もいろいろあるのだから。さて、果たしてどうなることやら。

[追記:後日書いた次の投稿をも参照のこと:https://kenmusica.blogspot.com/2023/05/2019.html

 過日、大学の図書館でノエル・ギャロン(1891-1966)のピアノ曲をいくつか借りてきた。眺めてみると、どれもよい作品である。ギャロンは作曲家としてよりもソルフェージュ、和声や対位法等の教師として高名だった人だが、作品を見る限りでは作曲家としてもなかなかの存在だと思う。

2019年11月28日木曜日

エッセンシャル版ベートーヴェン=シュナーベル

 往年の名ピアニストにして作曲家のアルトゥア・シュナーベルが編集したベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜はいろいろなヒントに満ちている。だからこそ、今でも版を重ね続けているのだろう。
 それゆえ、その翻訳版があってもおかしくはない(どころか、有益だろう)。が、もし私が翻訳をするならば(その意志はないので、あくまでも仮定だが……)、全訳はしない。というのも、楽譜に付けられたシュナーベルによる夥しい註の少なからぬものは、過去の種々の版への批判的なコメントだからだ。なるほど、そうした版が現役だった頃にはシュナーベルのコメントには意味があっただろう。しかし、そこで触れられている版は今やほとんどがお蔵入りの状態なので、それへの批判はいわば「徒手空拳」のようなものになってしまっている。そのため、今日でも有益な註(あるいは1つの註の中でも有益な部分)を取捨選択して訳すだろう。つまり、いわば「エッセンシャル版」をつくるわけだ。

 この「エッセンシャル版」の楽譜本体には、今日の原典研究を参照した必要最小限度の註も必要となろう。すなわち、シュナーベルが演奏のために加筆した部分は温存しつつ、彼が校訂した楽譜本体については必要な訂正を施す、ということだ。さて、誰か、この企画に挑戦する奇特な人士はいないものか。

 翻訳には相変わらず苦しんでいるが、何とか年内には仕上げねば!

 忙しいときほど、却っていろいろなアイディアが浮かぶもの。先日も大学へ向かう途中に電車の中でパッと1つひらめいた。その実現はまだまだ先になりそうだが、うまくいけばかなり面白いものができあがるだろう。
 それとは別に少し前に思いついたのが『音楽の語り方』という本のアイディアである。これは『演奏行為論』の中で触れた「言及ゲーム」の考え方を展開し、コミュニケーションと演奏ゲームの実践の問題を説くものとなろう。そこでは一切註はつけず、できるかぎり平易に問題を論じたい。これは来年になったら書き始めてみよう(どこかが出してくれるあてがあるわけではないが……)。
 

2019年11月11日月曜日

調和に満ちた「プレイ」

 私もベートーヴェンの音楽を愛することでは人後に落ちないつもりだ。が、だからこそ、彼の「名曲」ばかりを取り上げた演奏会へはあまり行かない。新鮮な気持ちで作品や演奏に向き合うには、(少なくとも演奏会では)「ごくたまにしか聴かない」ことが必要だからだ。それゆえ、たとえば、交響曲の演奏会ならば、あと10年くらいは行かなくてもかまわないと思っている。そして、それくらいたってから実演を聴けば、大いなる感動を味わうことができるだろう、とも。

 この理屈から言えば、「ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会」などというのは、私にとっては基本的には「避ける」べき類のものである。が、物事には例外がつきもの。アンドラーシュ・シフが自身が結成した楽団とともに演奏をするとあらば、これは聴き逃せない(http://www.izumihall.jp/schedule/concert.html?cid=1856)。……というわけで、910日と大阪のいずみホールに大いなる期待を持って出かけてきた。そして、深い感動を味わわせてもらった。

 一言でいえば、ベートーヴェンの凄さが改めてよくわかる演奏だった。たとえば、初日には第234番が弾かれたが、まず、第2番ではハイドンやモーツァルトの強い影響の中にも若きベートーヴェンの個性が強烈に感じられる。そして、続く第3番ではそこで新たに切り開かれている全く新しい劇的な音の世界に驚嘆させられ、第4番ではそこにさらなる広がりと深み、そして軽やかさが加わっており、心底魅了された。2日目の第15番でも同様。

 もちろん、これには演奏の見事さが大いに与っている。シフのピアノについては今更多言を要すまい。それに加えて興味深かったのは管弦楽とのやりとりだ。シフの仲間が集った楽団「カペラ・アンドレア・バルカ」(そのコンセプトについては上記リンク先を参照のこと)が独奏者とともに「作品」を軸に繰り広げたのは調和に満ちた「プレイ」である。一糸乱れぬ管弦楽がピアノと「対決」したり、主導権争いをしたりするのではなく、また、昨今少なからぬ影響力を持っているHIPの流儀にもさほどとらわれず、彼らは時にはごくささやかな(指揮者の「統制」が行き届いた管弦楽にはない、が、音楽としては全く問題のない)ほころびを見せながらも音楽として格段に充実した時を紡ぎ出す。そして、大昔の作品であるにもかかわらず、それは「今」の音楽として「も」説得力を持って鳴り響く。だから、聴いていてとても楽しい。

ともあれ、この演奏があまりに見事で面白かったものだから、すべてを聴き終えたのち、こう思った。「ベートーヴェンのピアノ協奏曲の実演は最低でもあと5年、いや、もしかしたら10年は聴く必要はあるまい」と。というわけで、いつものように、すべての演奏者とこの演奏会の実現に関わった方々に深く感謝し、お礼を申し上げたい。

2019年10月30日水曜日

絶妙のバランス感覚

 あれこれ(気分の上でも)忙しい日々が続くが、それでもやはり聴き逃せない演奏会というものはある。先週末、26日に大阪のザ・フェニックスホールで催された「伊東信宏 企画・構成 土と挑発:郷古廉&加藤洋之 デュオリサイタルがそれだ。

 恥ずかしながらヴァイオリンの郷古さんのことはほとんど何も知らず、名前を何かで目にしたことがあるくらいだった(私は作曲家にしろ、演奏家にしろ、「旬の」情報を積極的に集めることはせず、偶然の出会いに任せている)。が、今回のパートナーのピアノの加藤さんの演奏はこれまでに何度か聴き、深い感銘を受けていたので、「この人と組むのならばタダモノではないに違いない!」と思い、迷わず聴きに行くことに(ちなみに、こうした「芋づる式」の探し方は「当たり」を引く可能性が高い)。果たして、やはりタダモノではなかったのである。結局、2人の演奏に最初から最後まで圧倒され続けた。とりわけ、作品が要求する、ともすると矛盾を生み出しかねないものを絶妙のバランスでまとめあげ、極めて説得力のある音楽として演じて見せるさまに。

 演目は次の通り: 

ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
プーランク:ヴァイオリン・ソナタ FP.119


イザイ:子供の夢 作品14
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ 第1 Sz.75 BB84        

 ヤナーチェクの作品では得てして衝撃的な「事件」が次々と起こる。が、それだけにそれへの対応に追われる演奏が少なくない(それ以前のレヴェルで、「事件」を平凡な出来事にして丸く収めてしまう演奏や、逆に、過度に劇的なものにしてしまって収集がつかなくなる演奏もあるが……)。そうした諸々の事件を繋ぐ物語をきちんと描き出せるかどうかが演奏の成否を握る鍵となる。その点、このデュオは実に見事。このソナタで起こる数々の事件を鮮やかに示しつつ、驚くべき結末まで聴き手を導いてみせる。

 プーランクの音楽の多くは表面的には軽妙洒脱だが、一皮めくるとなかなかに「怖い」ところがある。そして、ときにはそれをはっきりと示すものも。このヴァイオリン・ソナタもそうした作品の1つだろう。だが、それでもやはりプーランクの音楽。やりすぎると野暮になる。さりとて、お上品にやっていたのではこのソナタは台無しだ。が、ここでも2人のバランス感覚は絶妙。

 イザイ作品は今回の緊張に満ちた演目の中では「つかの間の休息」を与えてくれる小品。とはいえ、この曲の夢幻的な感じは続く冒頭で(ほんの少しではあるが)似た雰囲気を漂わせるバルトーク作品への「前奏曲」としても悪くない。

 そのバルトークだが、郷古&加藤デュオは作品が持つラプソディックな響きとまことに緻密な構成をいずれも全く損なうことなく、活き活きとした音楽を聴かせてくれた。

 ともあれ、実に素晴らしい演奏会だった。こんな2人がたとえばエネスクの第3ソナタやシルヴェストロフの《追伸》などを演奏したらどうなるのだろう? あるいはブゾーニの2曲のソナタなども。




2019年10月5日土曜日

おなじみの名曲がかくも新鮮に

 まだ少しばかり暑いが、それでも気分は秋。すると室内楽が聴きたくなる。そこで昨晩はハーゲン四重奏団(於:いずみホール)を聴いてきた。演目は次の通り:



ハイドン: 弦楽四重奏曲 第77番 ハ長調 op.76-3 「皇帝」
バルトーク: 弦楽四重奏曲 第3 BB93 
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 op.29-1, D804「ロザムンデ」



弦楽四重奏曲の定番2曲の間に些か刺激的な作品を1つ挟んだ、巧みな選曲である(バルトーク作品ももちろんこの曲種では名曲としての地位を確立しているものの、少なからぬ聴き手にとってはまだ新鮮に聞こえるはずだ。かく言う私にとってもまた)。

 もっとも、これを「巧みな選曲」だと言えるのはハーゲン四重奏団の演奏が見事であればこそ。お決まりの名曲に対しては聴き手の耳は耐性ができており、ちょっとやそっとのことでは驚きもしなければ感動もしないが、昨晩の彼らの演奏はまことに新鮮に響き、それゆえに感動をもたらすものだったからだ。

 たとえば、「皇帝」四重奏曲。ハイドンの少なからぬ作品の常として、この曲にもあれこれ面白い仕掛けがなされている。が、そうした仕掛けに対する聴き手の驚きは作品を知るにつれてどんどん小さくなっていく。音楽の進行の中で「次はどうなる」かが予めすべてわかっているからだ。ところが、昨晩の演奏では、その「わかっている」はずのものが耳新しく聞こえたのである。だから、種々の仕掛けも実に面白く、最後までどきどきしながら作品を楽しむことができた。そして、これはシューベルトの場合でも同様。あの長大な作品がめったに演奏されないためにあまり耳になじみのない作品のように聞こえ、音のドラマの展開に一喜一憂させられる。

ハーゲン四重奏団は何も変わったことをしているのではない。作品をきちんと解釈して、しかるべき現実の鳴り響きを与えているだけである。が、決してたんなる何かの再現ではなく、あくまでも生きた音楽としてだ。

なお、バルトーク作品の演奏も実に見事。音楽はまことに生々しかったが、100年近い昔の作品などではなく、あたかも現在の世界の混迷を描き出しているかのように聞こえもする。

ともあれ、弦楽四重奏という媒体とその名作の魅力を存分に味わわせてもらった(どうもありがとうございました)。

2019年10月3日木曜日

待望の完結編

 中野慶理先生のスクリャービンのピアノ・ソナタ全集完結編がついに出た:https://www.hmv.co.jp/artist_スクリャービン%EF%BC%881872-1915%EF%BC%89_000000000021454/item_ピアノ・ソナタ全集-2-中野慶理_10174258

昨年の『スクリャービン:ピアノ・ソナタ全集Ⅰ』以来、その登場が待ち遠しかったものである。

 その『Ⅰ』には第12579番と小品数曲が収められており、演奏の完成度の高さもさることながら、スクリャービンの独特の世界を見事に描き出されていることにただただ感嘆させられた。だが、今回の『Ⅱ』(第346810と小品数曲を収録)にはそれをさらに上回る驚きが……。

 何よりも惹かれたのは音の自由な浮遊感だ。スクリャービンの音楽、とりわけ後期作品の演奏ではこの点が極めて重要なのだが、まことに複雑に書かれた音のありよう――独特のポリフォニー、変幻自在のリズム、素早い状態の変化、等々――がピアニストにその実現を容易には許さない。その点、中野先生の演奏では見事に音が宙を自由に舞っている。このことは『Ⅰ』の演奏についても言えることだったが、この『Ⅱ』ではその度合いがさらに増しており、そのことに私は胸を打たれずにはいられない。

 もちろん、ただ音が自由に浮遊するだけでは不十分だ。スクリャービンの音楽はまことに緻密に構成されており、そうした音楽の組み立てとドラマを説得力のあるかたちでピアニストは描き出さねばならない。この点については、それなりに巧みに聴かせるピアニストは(多くはないにしても)少なくはない。が、そこに浮遊感をもたせられる演奏家となると、これはあまりいないようだ。そして、今回の中野先生の演奏はその希有な例だと言えよう。

 CDに収められた演奏はどれも見事だが、私個人の好みで言えば、第8番にもっとも心惹かれる。軽やかな音の舞いとその舞台となる堅固な音の構築に耳を奪われつつ、最後にはまさに忘我の境地に誘われるのだ。聴き終えても「我」を取り戻すのにしばし時間を要するほどに。また、ともすると熱演・力演に陥りがちな第3番でのえもいわれぬ軽やかさと抒情性も好ましい。というわけで、スクリャービン・ファンはもちろんだが、むしろ、彼の(とりわけ後期の)音楽に馴染みのない人に大いにこの素晴らしいCDをお勧めしたい。


2019年9月23日月曜日

メモ(1)

 過去にどれほど栄華を誇ったものであっても、イノヴェーションがなければどんどん衰退していく。西洋芸術音楽もまた然り。
 それは何も音楽を供給する側だけの問題ではない。受け手(聴き手)の側にもイノヴェーションの余地はあるのではないか。聴き手はたんなる「お客様」ではなく、よい意味で音楽の場に積極的に関わる「ゲームの参加者」たりうるはずだ。

2019年8月31日土曜日

懲りずに再度

 相変わらず翻訳に苦悶している(涙)。が、とにかく、やるしかない。

 さて、以前、ここで自身が関わるレクチャー・コンサートのご案内したが、懲りずにもう一度。今回は出演者の一人、崔理英さんのブログの記事を拝借させていただく:https://sairie.com/info190915/
まことに見事な告知である。
 ちなみに、この崔さんのサイト自体も実によくできており、一人の音楽家のセルフ・マネジメントの優れた実践例だと思う。ぜひ、ごらんあれ:https://sairie.com/

 「《イベリア》による演奏論」はまだ考えがまとまらないところがあるので、続きはもうしばらく先になりそうだ。
 楽譜の「写経」をし、自分でもたどたどしく弾いてみもし、さらに種々の録音を聴くと、実にいろいろなことを考えさせられる。名曲の名曲たる所以だろう。

 クラシック音楽というのはそれに関わる者にとってはまことにお金のかかる芸能であり、そのことにおよそお金と縁がない私は言いようのない疎外感を常に覚え続けてきた。「よいものにお金がかかるのは当然だ!」――そうかもしれない。
 が、「よいもの」とは何か? 近年、「コミュニケーション」や「マネジメント」の問題を考えるようになり、先に述べたような「疎外感」からは解放されつつある。とともに、自分なりの実践の戦略を模索している。



 

 

2019年8月15日木曜日

秋のモーメント

 まだまだ暑い日が続いているが、それだけに秋の到来が待ち遠しい(もっとも、自分の仕事が自由にできる夏休みが早く終わるのは困る、という矛盾した思いもある……)。


 さて、その「秋」にちなんだ名曲を1つご紹介。それは金澤攝さんのピアノ曲《秋のモーメント》だ:https://enc.piano.or.jp/musics/62616
これは今は昔、まだ攝さんが「中村攝」だった頃の作品で、『アポロンへのオマージュ』というCDに収められていた(が、後年改訂された)作品である。
 詳細は上記ページでの本人の解説に譲るが、とにかくすてきな曲だ。是非、お聴きあれ。

 今日は敗戦記念日である。この国がかつて犯した愚行(もちろん、それはこの国に限ったことではない。が、まずは自分が今生きている国のもの)を振り返り、それを繰り返さないことを肝に銘じる日だ。「戦争を知らずに、僕らは生まれた」という人は私を含めて今やこの国のかなりの部分を占めていることだろう。そして、それだけに過去の経験に学ぶ必要がある。さもなくば、あの戦争で命を失った人たち、そして、命を失わされた国内外の人たちに申し訳が立たない。人は時間を遡ることができないのだから、今とこれからをよりよく生きることで過去の人たちに応えるしかない。

2019年7月30日火曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(3)

 「演奏論」と銘打ちながら、いっこうに本題に入らない(恥)。今回もそうだ。が、このブログでは思いついたことをメモ書きするという方針(!?)なので、どうかご寛恕のほどを(きちんとまとめ直したものは、いずれ開設予定のホームページに……)。
 楽譜の話をもう少しだけ続けたい。前回、「原典版」にも異なる編集方針のものが2つあると述べた。1つは自筆譜をもっとも重視するものである。それはスペインのピアニスト・音楽学者のギレルモ・ゴンサレスによる版だ(Schott社刊、1998年。以下、「GU」)。この版は自筆譜(そのファクシミリ版も同時に出版されている)を極力忠実に印刷譜に転記したもので、いわば「何も足さない、何も引かない」という版である(ただ、明らかに「書き間違い」だと編者が判断した箇所については修正されており、そのことが楽譜にも註記されている)。
 もう1つは作曲者の没後に故国スペインで出版された版に基づく音楽学者ノーバート・ゲルチュによる版(Henle社刊、2001-12年。以下、「HU」)。なぜ自筆ではなく、出版譜、それも作曲者没後の版を底本にしたかといえば、その準備をアルベニス自身が行っていたとみなしているからだ(この点については次を参照:https://www.henle.de/blog/en/2012/10/01/too-much-access-–-isaac-albeniz-revises-his-iberia-cycle/
 GUHUを見比べると、音自体にそれほど違いがあるわけではない。が、細々とした違いはいろいろとある。しかも、表記が随分異なっている。つまり、前者では声部が細かく書き分けられているのに対して、後者はできる限りシンプルに声部がまとめて書き直されているのだ。では、どちらが正しいのか? これは実のところ決めようがない。決定的な証拠がないからだ。
 すると《イベリア》を弾こうとする者はどうすればよいのか? このことを考えるときに示唆に富む版がある。それは森安芳樹校訂の版だ(春秋社刊、1996年。以下「ME」)。この版は諸般の事情で自筆譜を参照できていないものの、既存の版をまさに「眼光紙背に徹する」というふうに読み解き、かつ、自筆譜研究に基づくイグレシアス版(以下、「IE」)を参考にして編まれたものだ。その「編集」の核心を成すのは作品の徹底した読み込みである。
 既存の版やIEに書かれていることでも、音楽の論理や作曲者の作風を鑑みて森安は躊躇することなくテクストに「註釈」を加え、場合によっては「訂正」を施す。これは昨今の「たとえつじつまが合わなくとも、できる限り作曲者の書いた通りに」することを至上命令とする「原典版」の編集方針とはおよそ異なるものだ。
 もちろん、そうした「昨今の原典版」の方針もわからぬではない。つまり、その「極力何も足さない、何も引かない」という方針は、「作曲者が最終的に考えたであろうもの」を目指して編者が(研究の成果を踏まえて)「創り出した」かつての原典版へのアンチテーゼなのだ。が、そうなると、別の問題が生じる。作曲家自身が気づいていなかったり、見逃していたりした書き間違いをどうするのか、ということである。
 《イベリア》でもGUにしろHUにしろ、類似箇所の表記の不統一や音楽理論や作曲者の書法からすれば書き間違いと覚しき箇所がいくつも見つかる(それは自筆譜についても言えることだ。あれだけ複雑な作品で書き間違いがないことなど、まずない。しかも、出版に際してあれこれ変更をしているのだから、自筆譜に書かれたことを絶対視するわけにはいかない)。もちろん、それらの版でもそうした不統一や間違いを野放しにしているわけではない。が、基本は「何も足さない、何も引かない」ということなので、どうしても「介入」は控えめにならざるを得ない。もっとはっきり言えば、「生の材料はきちんと提示したので、あとは利用者が自分で問題を解決してください」というのが昨今の原典版の立場なのだ。
 ところが、そのように編集された版を読み解くには、それなりの技術が必要になる。すなわち、おかしな部分や舌足らずな箇所を見抜き、音楽理論や音楽史の知見に基づき補正する技術が(このことは、もちろん自筆譜についても同様。むしろ、こちらの方がいっそう精緻な読解の技術が要求される)。
 その点で、そうした「技術」を駆使して編集された楽譜というものの存在理由が出てくる。そして、《イベリア》の場合、MEという類い希な優れたものがあるわけだ。しかも、《イベリア》を研究するのならばともかく、普通に演奏するだけならば、中途半端に自筆譜のファクシミリ版や原典版を用いるよりもこのMEを用いた方がよいとさえいえる。
 では、次回からは具体的に《イベリア》の演奏の問題を考えていこう。
                                                                 (続く)











 

2019年7月24日水曜日

レクチャー・コンサート

 昨年9月に拙著『演奏行為論』をネタにレクチャー・コンサートを行った。今年も同じ時期に第二弾を。それなりに面白いものになるはずなので、乞うご来場(お問い合わせは次のところへお願いします:https://engage-salon.jimdosite.com/






2019年7月18日木曜日

シューベルトの連弾曲というと

 シューベルトの連弾曲というと《幻想曲 ヘ短調》D940など何曲かの名曲が思い浮かぶが、曲種全体としてはピアノ独奏曲や歌曲、そして、室内楽曲に比べて今ひとつ影が薄い――とずっと私は思っていた。が、先日、そうした先入観を見事に覆してくれる演奏に出会う。『シューベルト:フォルテピアノによる4手連弾作品全集:第1巻 エキゾティシズムと対位法』(山名敏之・山名朋子(フォルテピアノ))がそれだ(http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD9192.html)
 この演奏では現代のピアノの性能上どうしてもぼやけてしまう「対位法」が明瞭に聞こえ(たとえば、上記《幻想曲》)、ヴィーン古典派に対する「エキゾティシズム」が何とも鮮明に浮かび上がる(たとえば、《ハンガリー風ディヴェルティスマン》)。とにかく、音楽がいっそう軽やか、繊細、劇的、刺激的に鳴り響くのだ。いや、実に面白い。音楽のありようはもちろん、現代のピアノによるシューベルト演奏に「創造(想像)的」刺激を大いに与えてくれるという意味でも。
 「全集」と銘打たれている以上、続編が出ることになっているのだろうが、とても楽しみだ。

2019年7月9日火曜日

ルベルト・ジェラルトの《管弦楽のための協奏曲》に魅せられる

世の中にはあまり知られていない優れた作品がいくらでもある。そして、そうしたものに出会うと、「なぜ、これほどの作品がもっと演奏されないのか?」と思ってしまう。とともに、「なぜ、いつも決まり切った曲ばかり何とかの一つ覚えみたいに取り上げられているのか?」と不満を覚える。
先日もカタルーニャ出身の作曲家ルベルト・ジェラルト(Robert Gerhard1896-1970)の《管弦楽のための協奏曲》(1965)を聴き、そのあまりの見事さに深い感銘を受けた。「なぜ、これほどの作品が……」:https://www.youtube.com/watch?v=d0ndg4EZenI
この人のことはずっと以前から気になっていたのだが、大学の図書館でたまたまこの曲のスコアを見つけ、ぱらぱらとめくってみたところ実に面白い。そして、実際の音を聴いてみるとまさに期待通り。音列作法に基づく無調の曲で、全編緊張に満ちているのが、それだけではなく、音の動きが実に活き活きとしており、どこか飄々としたところさえある。とにかく、管弦楽の名人芸を駆使した1つひとつの出来事が面白く、最後まで耳を離せないのだ。




2019年7月6日土曜日

久しぶりの演奏会:いずみシンフォニエッタ大阪 第42回定期演奏会

 今日は随分久しぶりに演奏会に出かけてきた。それはいずみシンフォニエッタ大阪 42回定期演奏会(指揮:三ツ橋敬子、ハープ独奏:篠﨑和子)。演目は次の通り:
トゥリーナ:「闘牛士の祈り」op.34
ストラヴィンスキー:プルチネルラ組曲                 
薮田翔一:ハープ協奏曲《祈りの樹》~関西出身若手作曲家委嘱プロジェクト第7弾~
ラヴェル(ラヴェル+マイケル・ラウンド編):クープランの墓 

とにかく楽しかった。

 最初のトゥリーナ作品は初めて聴いた。が、すぐにそのスペイン的音楽世界に引き込まれる。演奏会の「掴み」としては実に巧みな選曲だ。

 そして、それに続くのが名曲《プルチネルラ》。いろいろと「妙な」仕掛けが施されている作品だが、それは実演で聴く方がよくわかって面白い。その「妙な」ところによりはっきりと焦点を合わせた「エッジの効いた」演奏も悪くないが、今回のようにごく自然にやることで自ずと「妙な」ところが浮かび上がる演奏も実に魅力的。これならば「組曲版」ではなく、「全曲版」で聴きたかった……。

 演奏会後半の最初は新作。モーダルでたんに聴きやすいだけではなく、確かに聴き手の耳に訴えかけるものをもっていた佳作であった。少なくとも聴いている間はとても楽しかった……が、驚くべきことに、次の演目が済んでみると、「最初と最後が変ニ調だった」ということ以外、きれいさっぱり忘れていたのである。なぜか? それはサウンドの魅力とは別に、作品の中にはっきりと耳に「ひっかかる」箇所がなかったからだ(もし、そうした箇所があれば、それをきっかけにして、他の部分も思い出せるものだ)。言い換えれば、音楽が(たとえ、7つの異なる部分から成っていたとはいえ)1つの安定した状態に留まっていたからだ。これは技法の問題ではない。構成の問題であり、さらに言えば「どれだけ聴き手の耳のことを考えているのか?」という問題である。そこでふと思い起こされたのが、ショパンの《子守歌》だ。同じ伴奏音型の繰り返しの上で変奏が繰り広げられる、まあ、ある意味でまことに単調な曲である。が、その終わり近くで、その単調さを破る音たる変ハ音が現れ、音楽の景色が一変する。そう、まさにこの「変ハ音」のようなものがあれば、薮田作品の印象は随分違っていただろう。そして、そのような音(響き)が加わったこの人の新作を聴いてみたい。

 最後のラヴェル作品は積年の靄々をある面で吹き飛ばしてくれるものだった。すなわち、元々のピアノ組曲を作曲者自身が管弦楽用に編曲する際に端折った2曲が補われていたからである。いや、これはまことに痛快。原曲に親しんだ者からすると、補われた〈トッカータ〉の編曲には原曲の持つスリルが失われているように感じられる(ピアノにとっては難しい音型・音形が管弦楽ではそうは聞こえない)ということはあろう(私もそのことを強く感じた)。が、それはそれ。原曲のことさえ気にしなければ、この「全曲版」は管弦楽のレパートリーとしては何とも魅力的だ。

 というわけで、演奏会全体としては大いに楽しませていただいた。演奏者はもちろん、企画・運営に携わった方々にお礼申し上げたい。

2019年7月2日火曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(2)

 《イベリア》の初版は作曲者の生前に出ているが、それ以後にきちんと校訂された楽譜が出たのはおよそ80年後。同国スペインの音楽学者・ピアニストのアントニオ・イグレシアスが編集した版がそれだ(Al puerto社刊、1989年。以下、「IE」)。きちんと自筆譜にあたり、既存の版の誤りを正しているという点でまことに画期的な版である。
 が、このIEにはもう1つ大きな特色がある。すなわち、元のテキストがあまりに演奏至難かつ読譜が難しいので、「弾きやすく」かつ「読みやすく」するために大胆に手を加えているのだ。たとえば、頻出する両手の交差を譜割りを変えることによって解消し、転調に際して調号を(場合によっては異名同音を駆使して複雑な音程を単純な音程に)書き換えるなどして、とにかくテキストの単純化・明瞭化を徹底して行っている(その具体例については、のちの回で改めて示すことにしたい)。
 そして、面白いことに、こうした書き換えはイグレシアスに留まらなかった。1998年にはやはり同国のピアニスト、ギレルモ・ゴンサレスによるもの(Schott社刊。以下、「GE」)、そして、2011年に同じくアルベルト・ニエトによるもの(Boileau社刊。以下、「NE」)が出ている。つまりは、それほどに《イベリア》というのは「難しい」作品だったわけだ。
 その間にこうした「実用版」だけではなく、いわゆる「原典版」も上梓されている。2種類の大きく編集方針の異なるものが。 
                                  (続く)

2019年6月30日日曜日

アルベニスの《イベリア》による演奏論(1)

 「自己紹介」で述べたように、このブログは「間歇的」にしか更新しない(できない(恥))。それゆえ、今日更新したからといって、次回がいつになるかは自分でもわからない。が、とりあえず、まずは最初の更新を行っておきたい。

 ネタは「演奏」についてである。演奏の良し悪しについてではない。「演奏とはどのような営みなのか」ということを論じたい。今、世の中はあらゆる面で転換期にあるが(たとえば、この国のデタラメぶりを想起されたい)、西洋芸術音楽の世界でも事は同じで、そのことがもっともよく表れている(精確に言えば、表れつつある)のが「演奏」という局面だからだ。
 そのために格好の材料となる作品がある。それはイサーク・アルベニス(1860-1909)の名曲《イベリア》だ。なぜか? それは、この作品の楽譜がそのままでは演奏できないほど複雑怪奇だからだ。そして、その「解決策」として楽譜を適宜書き換えた版がいくつもあるのだが、それが「演奏」という営みを考える上でいろいろなヒントを与えてくれる。
 というわけで、まずは次回は《イベリア》の種々の楽譜を俎上に載せることにしよう。なお、その際、「どの版がよいのか?」といったことは一切問題にしない。そんなことに私は全く関心がないからだ。そうした種々の版を通して「演奏」について考えることこそが私の関心である。  
 
 
 

2019年6月29日土曜日

前口上

 Yahooブログの修了につき移転先を探していましたが、ようやくここでブログを再開することになりました。心機一転、ゼロからの出発です。
 このブログではその名の通り、基本的には日々の雑記を気の向くままに綴っていくことにします。とともに、音楽論や芸術論の下書きを断続的に書きたいとも思っています(そうしたものはある段階で推敲してまとめ、今年中につくる予定のホームページに掲載するつもりです)。ともあれ、ここで綴るのはこのような世の中にあってはおよそ「無用」な事柄ではありますが、お読みいただいた方にはお楽しみいただければ幸いです。