2021年2月28日日曜日

オペラの字幕

 外国映画の日本語字幕は登場人物が日本語で話しているかのような感覚に観客もたらす。すると、オペラの字幕つき上演でも同様なことが起こっているのかもしれない。そこまでいかなくとも、少なくとも歌の言葉を聞き取る妨げにはいくらかなっているに違いない。というのも、字幕によって歌詞と音楽の結びつきが分断されてしまうからだ。

 さりとて、日本でのオペラ上演で今さら「字幕」をなくすのもなかなか難しかろう。そこで、その字幕の言葉を逐語訳にし、なるべく原語の位置とリズムに対応するようにすればどうだろうか。たとえば、’Ich lie-be di---ch.’と歌われている(「-」は音の延ばしを表す)とすれば、そのとき字幕には「私は 愛-する 君---を」というふうに示すというふうに。このようにしても完全に「歌詞と音楽の分断」とその結果としてもたされる「聴き手にとっての歌の器楽化」は完全には避けられないにしても、日本語として「きれいな」訳詞による字幕よりはいくらかマシだろう。ともあれ、よりよい「オペラの字幕」のありようを探ること(これには言語学、脳科学、認知心理学などの知見をも動員する必要があろう)は日本でのオペラ上演にとっては少なからず重要な課題ではなかろうか。

 

2021年2月27日土曜日

メモ(35)

  当該言語の運用能力を持つ者には聞き取れないような発音で歌曲やオペラ・アリアなどを歌っている歌手がいるとしよう。もちろん歌手は言葉の意味は理解しており、そこで何らかの表現を行おうとしている。そして、言葉以外の部分でも「表現」はなされているのだから、それは音楽として成立していることになるのだろうか?

たぶん、そうした外国語を解する者にとっては「発音」と「語」の不一致は少なからぬフラストレーションを引き起こし、他の面での表現の理解をも阻害する(に留まらず、聴く気を失わせる)だろう。では、歌われている外国語を解さない聴き手にとってはどうだろうか? この場合にはかかるフラストレーションは生じようがないから、素直に歌手の表現は聴けるだろう。ただし、その表現は器楽曲によるものと意味の上ではさほど変わらないことになろう(これを「無意味」だととるか、「これはこれで意味のあることだ」ととるかは、その人次第である)。

2021年2月26日金曜日

もし、ブラームスがヴィーンに定住していなかったならば

  ブラームスは後半生をヴィーンで送ることになったが、もし、生まれ故郷の北ドイツにポストを得ることができていて、そこを本拠地としていたら、果たしてどんな音楽を書いていただろうか?――池内紀の「ウィーンもの」を読みながら、ふと、そんなことが頭に浮かぶ。あの何とも刺激的だが人間関係のややこしい都市で暮らしていれば、生まれも育ちもおよそ「ヴィーン的なもの」とは遠いブラームスとて、自ずと何かしら作品のありようにも影響を受けただろうと想像されるからだ。

 私はブラームスの音楽を好むが、それでも時折、何か妙に煮え切らないというか、せせこましいというか。屈託が多いというか、とにかく、そうした面が嫌になる。だが、彼の音楽にはもっと大らかで骨太、かつ、健康的な面も大いにあり、そうした面はヴィーンに住まなければもっと発展させられたかもしれない。

 もっとも、そうなると、お馴染みの数々の名曲は生まれなかったかもしれないし、今ほどブラームスの音楽が好まれていなかったかもしれない。ともあれ、ブラームスの音楽とヴィーンという街の関係はきちんと探ってみると面白かろう。