昨日聴いてきた演奏会の感想を。それはいずみシンフォニエッタ大阪の第45回定期演奏会(指揮:大井剛史、サクソフォン独奏:上野耕平)だ。演目は下記の通り:
前半
I.ストラヴィンスキー:ダンス・コンセルタント(1942)
J.ヒグドン:ソプラノサクソフォン協奏曲(2005)
後半
酒井健治:Photons(2015)
M.カーゲル:DIVERTIMENTO?(2005-06)
ストラヴィンスキーは今年没後50年だが、それなりの頻度で作品が取り上げられているのは、やはり音楽の質が高く、演奏者、聴き手の双方にとって「喜び」を与えてくれるものだからだろう。実のところ、これまでこの《ダンス・コンセルタント》をさほど面白いと感じたことがなかったのだが、演奏を「観る」ことで音の身振りが可視化されて、「ああ、なるほど」と初めて得心がいった次第。音楽の中は実に頻繁に突然の停止と開始、方向転換が生じるのだが、それがまことに面白く、作曲者の「構成」の巧みさ――言い換えれば、聴き手を最後まで引きつけ続ける力――に唸らされた。いや、とにかく面白かった。
1962年生まれのジェニファー・ヒグドンは「現代音楽」ではない「現代の音楽」を書く人だ。その作品には調性がしっかりあり、形式も明瞭だが、月並みではない。以前、彼女のヴァイオリン協奏曲を(ヒラリー・ハーンの録音で)聴いたとき理屈抜きに楽しめたが、それは今回のソプラノサクソフォン協奏曲でも同じだった。きっちり聴き手を(そして、おそらく演奏者とも)楽しませる職人芸は奇矯なだけの個性や独創性よりも大切だと改めて実感した次第。この曲ならばまた聴いてみたいと思う。なお、独奏の上野のパフォーマンスも魅力的だった。
さて、まことに楽しかった前半に比べて、後半の演目について感想を述べるのは些か気が重い。が、あくまでも私個人の感想ということで、正直に書くことにしよう。まず、酒井作品だが、音を扱う技術の高さには瞠目させられるものの、それを駆使して何を言いたかったのかが私にはさっぱりわからなかった。個々の部分の響きには魅せられることは少なからずあったのだが、作品全体の物語が最後まで見えずじまいだったし、その「見えなかった」ものを見るために「もう一度聴いてみたい」という気にはなれなかったのである。同じことは以前に同氏の別の作品を聴いたときにも感じたことだったが、してみると、私はどうやら酒井の音楽のよい聴き手ではないようだ。残念(これは皮肉でこう言うのではない。一人の作曲家が真摯に書いたであろう作品をうまく味わず、貴重な実演を楽しめないというのは、本当に残念だ)。もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎず、この作品を面白く感じる人もいることだろう(から、そうした人は私のことを「ああ、あいつはわかっていないなあ」と思ってくださってけっこうである)。
最後のカーゲル作品は副題にあるように音楽による「笑劇」であり、演奏者は音を出すだけではなく、さまざまな演劇的行為をもこなさねばならない。カーゲルは1960年代からいわば「音楽の演劇化」に取り組んできた人であり、最晩年のこの作品でもまさに劇的な光景が舞台で音と身振りの両面で繰り広げられている。なるほど、面白いといえば面白い(なお、演奏前に「ネタ」をばらしたのはよくなかったと思う。何が起こるかわからない方がもっと聴衆=観客は楽しめたはずだ)。が、同時に「面白がろうと努めなければ面白くない」とも感じた。なぜか?
それはカーゲルの「劇」を成り立たせる背景、すなわち、「現代音楽」の、ひいては西洋芸術音楽の規範力や存在感が大いに弱まってしまったからである。カーゲルがつくり出そうとする「笑い」は、あくまでも「現代音楽」(やクラシック音楽)がしかるべき勢力を持っており、その力が広く認知されている場合にその「茶化し」が効果を発揮するものだったように思われる。その意味で1960-80年代には驚くべき破壊力を彼の作品は持っていたが(80年代前半、少年時代に聴いたカーゲル作品は実に刺激的で面白かった)、「現代音楽」が衰退して「何でもあり」になり、さらにはそれを包含する西洋芸術音楽自体も力を弱めていったとなれば、「茶化し」は空振りに終わらざるを得ない。にもかかわらず、カーゲルほどの才人が21世紀になってもまだ、最晩年に至るまでこうした「笑劇」を音楽で行い続けていたことに「衝撃」のようなものを感じ、何か寂しさのようなものを味わった(と言うのは些か辛辣すぎるだろうか?)。なお、当日の演奏=パフォーマンス自体はまことに堂に入ったものであり、見事だった。
ともあれ、演奏会全体としては十分に楽しませてもらったわけで、指揮者と演奏者、そして、企画運営のホールにはお礼を申し上げたい。