武満徹の楽譜では強弱などの記号がかなり細々と書かれている。そして、作曲者はそれをきちんと守ることを望んでおり、「よけいなことはしれくれるな」とさえ思っていた。が、それは必ずしも「自分が考えた通りに演奏して欲しい」ということではなく、想定外の解釈をも喜んで受け入れている。ただし、その場合でももちろん、楽譜に書かれたことはきちんと守った演奏である必要があったろう。
もっとも、聴き手の多くは楽譜を見ながら聴いているわけではない。すると、楽譜を遵守していない演奏で少なからぬ聴き手を魅了するものがあったとしても不思議はあるまいが、さて、こうした演奏は「武満作品の演奏としては邪道」と退けるべきなのか、それとも「創意に満ちた演奏」として評価すべきなのか?
それは「演奏」というものをどう考えるかによって違ってこよう。すなわち、「演奏=作品解釈」だとすれば、作曲者本人の意に反して自由にふるまう演奏は否定されざるをえないが、「演奏=作品を土台にした演奏者の創造的表現の場」だとすれば、それが数多の聴き手を引きつけるものならば認められてしかるべきだということになる。
ただし、「解釈」に終始した方がよい作品 もあれば、「創造」の余地が大いにある作品もあろう。では、武満作品の場合はどうなのだろう? 私は前者だと思う。あまり余計なことはしない方が彼の作品は魅力的に響く、ということだ。もちろん、そうはいっても、まだまだいろいろな解釈の可能性がそこにはあるだろうが。