西洋音楽の「日本的演奏」というものがあるのならば、「日本的聴取」というのもあるはずだ。
2023年4月30日日曜日
2023年4月27日木曜日
《生命の竪琴》の楽譜付き動画
以前話題にしたヘンリー・カウエルの名曲《生命の竪琴》の楽譜付き動画を見つけたのでここにあげておこう(https://www.youtube.com/watch?v=72_dl1iLvuc。録音は以前にあげたのと同じでシュライアマッハーのもの。この演奏は見事だが、中間部に一箇所、残念な譜読みのミスがある(2'30"のところ、このページの2小節め、右手の最初の和音でBではなくB#が弾かれている)。また、楽譜自体にもミスプリントと覚しき箇所が一箇所ある。1'07"のところ、このページ下段3小節め、右手最後の和音ではCに♮が付けられるべきだが、それが抜けている)。ピアノの弾ける人は、是非、実際にこの曲を鳴らしてみるとよかろう。聴くだけの場合とはまた違った、なかなかの感動が味わえるはずだ。なお、楽譜は今では(と言うのも、私がこの曲を初めて聴いた1985年には版画途絶えていたからだが)購入可能(https://classicalondemand.com/harp-of-life-the.html)なので、気になる方はどうぞ(私もいずれは購うつもり)。
この《生命の竪琴》でのトーン・クラスターはいわば効果音であり、それを取り除いても音楽はいちおう成立する(ただし、効果は大きく損なわれるが)。他方、カウエルはクラスターを音楽の構成要素としてもっと積極的に用いることもあった。次にあげる《虎》がその一例である(https://www.youtube.com/watch?v=63FBKjXuVv0)。この場合、クラスターを音楽から取り除くことは不可能だ。この曲は好き嫌いが大きく分かれるだろうが、フレデリック・ジェフスキの今やかなりの人気曲になった〈ウィンズボロ綿工場のブルース〉(https://www.youtube.com/watch?v=WYT_XmJKp_o)などは紛れもなくこの《虎》の子孫である。
2023年4月25日火曜日
ジャン・バラケのピアノ・ソナタの方が
ジャン・バラケ(1928-73)のピアノ・ソナタ(1950-52)にはブゥレーズの第2ソナタ(1948)の影響がうかがえるが、私にはバラケのソナタの方が格段に面白い。先日、久しぶりにイヴォンヌ・ロリオの録音(https://www.youtube.com/watch?v=bdSHGkhprUI)
で聴いたのだが、たちまち引き込まれてしまった。彼女はブゥレーズの第2も録音しているが、それよりもこのバラケの演奏の方がずっと魅力的に聞こえる。彼女にとってもこちらのソナタの方がしっくりきたのであろうか?
'Boys be ambitious! 'とは有名な文言だが、「少年よ大志をいだけ」という訳は些かきれいごとすぎるということもそれなりに知られていよう。すなわち、ambitiousという語は「野心的な」という訳の方がしっくりくる語だということである。
とはいえ、最近までその語源についてまでは知らなかった。この形容詞の元となる名詞ambitionはラテン語のambitioに由来し、その意味は「(票を求めて)歩き回る」ことだという(『ジーニアス英和大辞典』)。なるほど、これはつい先日まで巷で繰り広げられていたことである。彼ら選挙の候補者たちはまさにambitiousだったわけだ。
とはいえ、選挙の投票率はまことに低い。つまり、投票に行くと決めていた人たち以外には彼らのambitionはほとんど何の効果も持たなかったことになる(その方が大方の候補者にとっては都合がよいのかもしれないが……)。だとすると、それははたんなる迷惑な騒音にすぎないことになろう。
2023年4月23日日曜日
よき「現代の音楽」との出会い
たまたま見つけたものだが、なかなか面白い:https://www.youtube.com/watch?v=HV0QGmisszc&list=PLXbNGBoyS2GIPIt9gndiHFEmLPBQewLc7&index=10。この作曲者、高橋宏治(1986-)(https://www.kojitakahashi.net/about)のことは全く知らなかったが、興味がわいたので他の作品もいくつか聴いてみた(https://www.youtube.com/channel/UC2C_sQgWwWgjzpoe9wpL-bw)。すると、いずれも飄々としたユーモアのあるもので、大いに楽しめた。それだけではない。この人の音楽には何かしら耳や心に「ひっかかり」をもたらすものがあり、聴き手の想像力をあれこれ刺激してくれるのだ。近年、何人かの作曲家の新作に深い絶望を味わっていただけに、この高橋氏の音楽との出会いはとてもうれしい。
2023年4月20日木曜日
ラフマニノフの前奏曲作品23の4の一節
次にあげるのはラフマニノフの前奏曲作品23の4の一節である。
その3小節め、上段のリズムに注目されたい。上声部にある3連符の飾りの下に旋律があるわけだが、色を付けた部分を右手だけで、たんにリズムが正確であるだけではなく、音楽的に自然に聞こえるように弾くとなると、3連符が絡むためにかなりやっかいである。
だが、たぶん、ラフマニノフはこれを左手で弾いたのではなかろうか。彼の大きな手ならば何の問題もなかったはずだし、その方が格段に弾きやすい。
そこまで手が大きくない者は右手だけでこの難題を処理しなければならない。たとえば、アシュケナージが1970年代に行った録音では3連符を些か犠牲にして旋律を優先している(次の音源の18'02"あたり:https://www.youtube.com/watch?v=NaheZW2Q-cc)が、それは必ずしも責められるべきことではなかろう。
ネット上のニューズには匿名で何でも書き込めるようになっているコメント欄の付いたものが少なくないが、ああしたものはなくした方がよい。
2023年4月18日火曜日
文楽に感動
昨晩は国立文楽劇場で近松門左衛門の『曾根崎心中』を観てきた。実はこれが生での文楽初体験だったのだが、何とも感動的な公演であり、また観たいと強く思った。
人形遣いの妙技にも唸らされたが、私は「聴覚」人間なので、やはり太夫の語りと三味線の「音」の方にどうしても注意が傾く。文楽ど素人なので、どのくらいその芸が聞き取れたかはわからない。が、そこにとにかくぐっと引き込まれ、深い感動を味わったのは確かだ。
西洋音楽を聴き馴れた私の耳にとっては文楽の語りはおよそ異質なもののはずである。ところが、実際に聴き始めると何の違和感も覚えなかった。いや、それどころではない。語りの細かい表現がいちいち腑に落ち、何とも生々しく感じられたのである。正直なところ、西洋音楽のオペラでこうした感覚を抱いたことは一度もない。それはやはり、「言葉」の違いのゆえであろう。つまり、いくら意味がある程度はわかったとしても、痒いところには手の届かない外国語によるオペラに対し、日々その中で暮らしている母語(テキストで用いられている言葉は現代語とは些か異なるとはいえ……)による文楽の方が身にしみるのは当然といえば当然。とはいえ、今回、自分の音感がいかに日本語に根ざしたものであるかが改めて強く実感された。
ともあれ、はじめに述べたように、これからも機会を見つけて文楽を楽しみたい。のみならず、以前から散発的に楽しんでいた能楽も。他方、オペラももう少しよく楽しめるようになれればうれしい。昨晩、劇場では西洋人と覚しき観客も何人か目についたが、彼らが異言語人として文楽を楽しんでいるのと同じ程度で私には十分である(が、歌曲はもっと深く味わえるようになりたい)。
統一地方選後半のために連日選挙カーが騒音をまき散らしている。 例によって名前を連呼するのがほとんどだ。それは逆効果でしかなかろうに。
2023年4月16日日曜日
ヴァンサン・ダンディの評伝
ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)は高名な割にはその「人」についても「作品」についてもさほど知られていない作曲家であろう。かく言う私もあまり知らなかった。が、興味はあった(演奏時間40分を超えるピアノ・ソナタは是非、実演で聴いてみたいと思っている)。それゆえ、今年、そのダンディの評伝(https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393932254.html)が出たのはうれしい。大学図書館で見つけたので借りて読んでみたが、読み応えのある本であり(創作の全体像をもう少し鮮明に論じてくれていれば、なおありがたかったが、良書であることに変わりはない)、いろいろなことが学べた。そして、彼の作品をもっと聴いてみたくなった。いまひとつよくわからなかった第2交響曲も、今ならば違って聞こえるかもしれない。
ダンディのピアノ・ソナタ(https://www.youtube.com/results?search_query=d%27indy+piano+sonata)とデュカスのソナタを1つの演奏会で取り上げてくれる剛毅なピアニストがいないだろうか……。
2023年4月15日土曜日
ヴァッティモのLa società trasparente
ジャンニ・ヴァッティモのLa società trasparenteの邦訳(『透明なる社会』、多賀健太郎・訳、平凡社、2012年)は2000年に出た原著第3版に基づいてなされており、「脱現実化の限界」という新章が追加されている。訳文はありがたいことにそれなりに読みやすい文章なのだが、原典で確かめたくなる箇所もあれこれないではない。1989年初版のコピー(戸澤義夫先生のハードな集中演習で用いられたもの)は持ってはいたものの、邦訳で「他の章でもおそらく多少の加筆修正がなされたものと推測される」と「訳者あとがき」で述べられてはいたので、両者の異同も気になっていた。そこで第3版を入手してざっと見比べてみたが、「加筆修正」はなされていなかったようだ。ともあれ、改めてこの名著をゆっくり読み直してみたいところだ……が、今はその時間がない。というわけで、いずれまた。
2023年4月13日木曜日
日本語とメロディー
坂本龍一が日本語とメロディーの関係について語っている興味深い記事があった(https://news.yahoo.co.jp/articles/2c41fc2a25166bee54090d384b9604d267092408?page=1)。そして、その中でこう言う。
日本語はロックとかそういう音楽が輸入されたものだから。欧米の言葉によって発明された音楽が輸入されて、その上に無理やり言葉をのせてるから難しいんですよ。日本語の自然の姿は浄瑠璃とかなんですよ(上記リンク先の2ページめ)。
まことにごもっともな指摘である。ことは「日本歌曲」でも同じである。のみならず、そこでは「ベル・カント」という障害があるので、いっそう事態は深刻だ。
もちろん、それまでにもそうした問題に真摯に向き合っていた作曲家はおり、種々の試みがなされてきた。そして、坂本の師、松本民之助もその一人であり、独自の境地を切り開いた人であった。その試みによって問題がすべて解決されたわけではないにしても、今日でも日本語に節づけをする上で示唆に富むものだと私は思う。
2023年4月11日火曜日
まるで現代音楽
まるで現代音楽:https://www.youtube.com/watch?v=3oaRM1uDsw8。12世紀末から13世紀はじめにかけて活動したフランスのペロタンの曲である。そこには時空を超えて語りかけてくるものがあるようだ。時折、こうしたものが無性に聴きたくなる。残響の多い場所で実演を聴いたらさぞかし楽しかろう。
他方、昨今のある種の「現代音楽」を聴くと、眼前にあるにもかかわらず、どうにも近づけない別世界の出来事のように感じられる。
2023年4月10日月曜日
メモ(93)
監督ジャック・ドゥミ、音楽ミシェル・ルグランの名作『シェルブールの雨傘』(1964)を久しぶりに観ている。何よりも言葉の美しさとそれを引き立たせる音楽のありように魅了される。私にとってはそうしたミュージカルの方がオペラよりも格段に好ましい(どちらもそう観ているわけではないにしても)。とはいえ、もっとオペラが楽しめるようになれればいいなあとも思っている。そして、その意味で日本語にもっとふさわしいオペラの様式の創出にも期待したい。
選挙の結果よりも、投票率(とりわけ若年層のもの)が低いことの方が気になる。
2023年4月8日土曜日
なぜか今日一日頭の中で鳴り響いている音楽
坂本龍一はアカデミックな技術をきっちりと身につけた上でポピュラー音楽の世界で大活躍した人だが、同様な音楽家として真っ先に思い浮かぶのが近年長逝したミシェル・ルグラン(1932-2018)である。このところ彼の自伝を再読しているのだが、その仕事ぶりには圧倒されるばかり。まことに興味深い人である。
そのルグランに比べれば格は落ちるかもしれないが、ある時期の日本人にとってなじみ深かったのがポール・モーリア(1925-2006)だ。そして、今日、なぜか彼の楽団による次のナンバー(作曲は別人の手になるものだが、ここで肝心なのはアレンジである)がずっと頭の中で鳴り響いている:https://www.youtube.com/watch?v=H-8U3hvpijM。今の若者たちは彼の名、音楽をどの程度知っているだろうか。もし、あまり知らないのならば、それを聴いてどんな反応を示すだろうか。
そういえば今日は花祭り、すなわち、釈迦の誕生日として祝われる日である(この日付けは国によっていろいろ異なるらしいが)。本来、日本人にとっては仏教の方がキリスト教に比べて身近なはずだが、今となってはクリスマスに比べてこの花祭りは格段にマイナーな存在である。こうしたところにも日本の異文化受容の1つの型を見ることができるし、それは西洋音楽の受容とも無縁ではなかっただろう。
2023年4月7日金曜日
坂本龍一のアカデミックな作品を聴く
『Ryuichi Sakamoto | year Book 1971-1979』(commons/エイベックス、2016)を聴いている。この3枚組のアルバムには坂本龍一の東京藝大時代の作品もいろいろ収められており、それに興味があったのだ。
そうしたアカデミックな作品は実にきっちりと書かれており、坂本の腕の確かさをうかがわせるものだ(さもなければ作曲科の大学院には進学できなかったろう。そこはなかなかの狭き門だったのだから)。とはいえ、それらの作品には強烈な個性は感じられなく、あくまでも「秀(才の)作」に留まっているように思われる。もしその延長線上で創作を続け、「現代音楽」の作曲家として活動していたならば、おそらく「世界のサカモト」は生まれなかったことだろう。が、実際には自らの職人芸を最大限に活かせる(とともに、ある意味で「現代音楽」よりも大きな可能性を持つ)ところに活動の場を求めて大きな成功を収め、音楽の世界を豊かにしたわけであり、その点で坂本龍一というのは本当に非凡な音楽家だったと思わないわけにはいかない。
そんな坂本の数少ない「現代音楽」作品たる《分散・境界・砂》(1976)はまことに美しく、鋭い音楽である(もっとも、そこかしこに散りばめられた「言葉」はいかにも「現代音楽」調であり、目(耳)障りだ)。こうしたものを聴くと、そのときに彼がまさにシリアスな音楽とポップな音楽の「境界」線上にいたことがわかる。そして、そこからYMOへの距離はそう遠いものではなかったことも。
2023年4月5日水曜日
日本語話者が外国語に付曲すると……
昔々、恩師松本清先生から伺った興味深いエピソードがある。先生がケルンで学んでいたときのこと。ドイツ語のテクストで歌曲を書こうとしたところ、大学の師から「あなたのドイツ語力では無理だからやめなさい」と窘められたという。もちろん、当時の先生には普通に「読み、書き、話す」能力はあったのだが、その師が求めたのはそれ以上のこと、すなわち、言葉の微妙なニュアンスを読み取り、かつ、聞き取り、作曲に活かせる力だったわけだ。そして、たぶん、その師は他の外国人留学生に対しても同様なアドヴァイスをしたことだろう。
ところで、先日、先生と電話で話していたとき、この先生自身の体験に類する新たな話を聞かされた。曰く、近年、欧州のある作曲のコンクールでフランスに学んだ若手の日本人(この人は一時期先生の下で学んだことがあり、以下に述べる事情も電話で本人から聞いたとのこと)が1位なしの2位に入賞したのだが、1位に選ばれなかった理由というのが、歌に外国語のテクストを用いたからだというのだ。その作品については「音は面白い」と高く評価された(からこそ最高位に選ばれたわけだ)とのことだが、結局、松本先生の場合と同じ問題がここでも生じていたのである。
「西洋音楽の日本(語)化」(くどいようだが、私はこのことを否定的にのみとらえるつもりはない)の意味の問題を考える上で、以上のようなエピソード――つまり、日本人の西洋音楽に対する西洋人からの反応――はまことに興味深く、意義深いものである。こうした実例をもっと数多く集めるといろいろなことがわかってくることだろう。
2023年4月3日月曜日
『You』のエンディング
坂本龍一の曲で私がとりわけ好んでいるのが、NHK教育で放送されていた番組『You』(1982-87年に放送)のエンディングだ(https://www.youtube.com/watch?v=9nITcZ9wQRs)。それほど熱心に観たわけでもない番組自体は今となっては忘却の彼方だが、この曲だけは記憶に残っており、今でも時折聴きたくなる。
坂本といえば『戦場のメリークリスマス』 のテーマ曲、〈メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス〉が有名だが、私はこの曲はさほど好きではない。むしろ、同じ映画音楽の他の曲の方がよいと思っている。そういえば、昔々、そのピアノ版の楽譜が出たとき、(めずらしくもLPとともに)すぐに購い、楽しんだものだ。
思えば、それから2、3年ほどが坂本への私の関心のピークだったかもしれない(昨日話題にした〈ぼく自身のために〉の楽譜もその頃に入手している)。ただ、以来、関心は「なんとなく」に留まっているが、決してなくなりはしなかった。
2023年4月2日日曜日
耳のチャンネル
先週NHK-FM『夜のプレイリスト』(再放送)で案内役を務めていたのが元ちとせだった。この名を耳にしたのも随分久しぶりだし、まして彼女の歌など20年以上聴いたことがない。が、これも何かのご縁と思い、You-Tubeでいくつか聴いてみると、これが理屈抜きに心を揺さぶるのだ(たとえば:https://www.youtube.com/watch?v=-zNw3W70AbE)。いや、すごい歌、声である。生で聴いたらもっといいだろうなあ……とは思うものの、残念ながら私の耳はライヴの「爆音」には絶えられないので、録音を聴くしかない。
そのようにYou-Tubeを観ていると、ついついリンクしている別の音楽も聴きたくなってしまう。今回たまたま目に付いたのは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=G1V9Ot9JkZM。私はこの曲が大好きなのだが、発表当時の演奏ではなく、後年のものであるところがまた面白い。
ところで、自分が日頃親しんでいる西洋芸術音楽で歌を聴く場合、どうしても歌詞が外国語によるものが多くならざるをえない。が、このところジャンルこそ違え日本の歌をいろいろと聴いていると、どうもこちらの方が心安らぐような気がする。だからといって、シューベルトやフォレらの歌曲などを好む気持ちに変わりはない。ただ、どうやらそうしたものを聴く場合と日本の歌を楽しむ場合では、自分の「耳のチャンネル」が切り替わっているようだ。
坂本龍一が亡くなったとのこと。それを知る前の今日の午前中、なぜか急に彼のピアノ曲《僕自身のために》(https://www.youtube.com/watch?v=MGzgFDjjpPQ)のことが思い起こされ、「手持ちの楽譜を見てみなければ」と思っていだのだが……。ともあれ、ご冥福をお祈りしたい。
2023年4月1日土曜日
ブゾーニ&ラフマニノフの誕生日
今日4月1日はフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)の誕生日。のみならず、ラフマニノフ(1873-1943)にとってもそうだった(ただし、彼の場合、当時のロシアの暦では3月20日にあたるのだとか)。
この2人はともに希代の大ピアニストであり、彼らの前ではかなりの数の名手も霞んでしまう。他方、作曲家としては20世紀には今ひとつ評価が低かったが、この21世紀にはそれも徐々に改められつつある。両者の作風には共通点はほとんどない。が、同じ主題、すなわち、ショパンの前奏曲作品28の20に基づくピアノの変奏曲をものしている(ブゾーニのもの:https://www.youtube.com/watch?v=Ovj5HQl6Qgc、ラフマニノフのもの:https://www.youtube.com/watch?v=5qLURwCU9jw)。私個人の好みとしてはブゾーニの変奏曲に軍配を上げたいところだが(ちなみに、このブゾーニのものと、ブラームスのヘンデル変奏曲、そしてレーガーのバッハ変奏曲を私は勝手に「ロマン派の三大『変奏曲とフーガ』と呼んでいる)、ラフマニノフの方を好む人もいよう(彼の《コレッリの主題による変奏曲》は傑作だと思う)。