昔々、恩師松本清先生から伺った興味深いエピソードがある。先生がケルンで学んでいたときのこと。ドイツ語のテクストで歌曲を書こうとしたところ、大学の師から「あなたのドイツ語力では無理だからやめなさい」と窘められたという。もちろん、当時の先生には普通に「読み、書き、話す」能力はあったのだが、その師が求めたのはそれ以上のこと、すなわち、言葉の微妙なニュアンスを読み取り、かつ、聞き取り、作曲に活かせる力だったわけだ。そして、たぶん、その師は他の外国人留学生に対しても同様なアドヴァイスをしたことだろう。
ところで、先日、先生と電話で話していたとき、この先生自身の体験に類する新たな話を聞かされた。曰く、近年、欧州のある作曲のコンクールでフランスに学んだ若手の日本人(この人は一時期先生の下で学んだことがあり、以下に述べる事情も電話で本人から聞いたとのこと)が1位なしの2位に入賞したのだが、1位に選ばれなかった理由というのが、歌に外国語のテクストを用いたからだというのだ。その作品については「音は面白い」と高く評価された(からこそ最高位に選ばれたわけだ)とのことだが、結局、松本先生の場合と同じ問題がここでも生じていたのである。
「西洋音楽の日本(語)化」(くどいようだが、私はこのことを否定的にのみとらえるつもりはない)の意味の問題を考える上で、以上のようなエピソード――つまり、日本人の西洋音楽に対する西洋人からの反応――はまことに興味深く、意義深いものである。こうした実例をもっと数多く集めるといろいろなことがわかってくることだろう。