昨晩は国立文楽劇場で近松門左衛門の『曾根崎心中』を観てきた。実はこれが生での文楽初体験だったのだが、何とも感動的な公演であり、また観たいと強く思った。
人形遣いの妙技にも唸らされたが、私は「聴覚」人間なので、やはり太夫の語りと三味線の「音」の方にどうしても注意が傾く。文楽ど素人なので、どのくらいその芸が聞き取れたかはわからない。が、そこにとにかくぐっと引き込まれ、深い感動を味わったのは確かだ。
西洋音楽を聴き馴れた私の耳にとっては文楽の語りはおよそ異質なもののはずである。ところが、実際に聴き始めると何の違和感も覚えなかった。いや、それどころではない。語りの細かい表現がいちいち腑に落ち、何とも生々しく感じられたのである。正直なところ、西洋音楽のオペラでこうした感覚を抱いたことは一度もない。それはやはり、「言葉」の違いのゆえであろう。つまり、いくら意味がある程度はわかったとしても、痒いところには手の届かない外国語によるオペラに対し、日々その中で暮らしている母語(テキストで用いられている言葉は現代語とは些か異なるとはいえ……)による文楽の方が身にしみるのは当然といえば当然。とはいえ、今回、自分の音感がいかに日本語に根ざしたものであるかが改めて強く実感された。
ともあれ、はじめに述べたように、これからも機会を見つけて文楽を楽しみたい。のみならず、以前から散発的に楽しんでいた能楽も。他方、オペラももう少しよく楽しめるようになれればうれしい。昨晩、劇場では西洋人と覚しき観客も何人か目についたが、彼らが異言語人として文楽を楽しんでいるのと同じ程度で私には十分である(が、歌曲はもっと深く味わえるようになりたい)。
統一地方選後半のために連日選挙カーが騒音をまき散らしている。 例によって名前を連呼するのがほとんどだ。それは逆効果でしかなかろうに。