「この曲でまだこんなことができるのか!?」――よく知っているつもりの名曲の数々でそんな驚きを随所でもたらしてくれるとともに、個々のドラマを存分に味わわせてくれたのが昨晩催された中野慶理先生のピアノ・リサイタルである(於:いずみホール(大阪))。
演目は次の通り:
ショパン:舟歌 嬰ヘ長調 op. 60
夜想曲 ロ長調
op. 62の1
バラード 第4番
ヘ短調 op. 52
ポロネーズ 第7番
変イ長調「幻想ポロネーズ」op. 61
ドビュッシー:前奏曲集 第1集
もちろん、オーソドックスな演目だとはいえ、すべてをしかるべき水準の演奏で聴かせるのはそうたやすいことではない。が、この日の演奏はそうしたことに留まるものではなかった(以下、敬称略)。
まず、驚きの例を1つあげよう。それは演奏会後半に弾かれたドビュッシーの《前奏曲集 第1集》の第1曲〈デルフィの舞姫〉冒頭でのことだ。下の譜例(初版)にあるように、ここにはペダル記号が記されていない。
が、ここではペダルを用い、1拍毎に踏み換えて弾くのが普通である(作曲者自身のピアノ・ロールでの演奏でもそうなっている)。だが、そうなると、4分音符の和音にあるスラー付きのスタッカートの意味がかなりのところ失われてしまう。というのも、それは和音の弾き方――打鍵の際のニュアンス――には反映されはしても、その後にペダルのために音が保持されてしまうからだ。ところが、中野はここでペダルを拍の終わりまで踏み続けず、和音の保持を適度なところで切り上げていたのである。それはまさに「スラー付きのスタッカート」であり、これが従来の弾き方よりもいっそう鮮明に浮かび上がった真ん中の旋律を包み込むのだ。
こうした「驚き」がこの日の演奏では数多くあり、しかもそのいずれもがしかるべき効果をあげ、音楽として説得力を持っていたのであり、そのこと自体がまた驚きであった。それは当日のすべての演目について言えることだが、とりわけドビュッシー作品について強くそう感じた。そして、そうした見事な解釈を示した中野の演奏に圧倒されるとともに、それを可能ならしめた作品の懐の深さに感じ入った次第。
さて、この日の演奏でもう1つ、感銘を受けた点がある。それは「無駄な山場がない」ことだ。ラフマニノフは楽曲には「1つのポイント」があり、それを演奏はとらえなければならないと述べているが、中野の演奏はまさにその好例だと言えよう。そのことがよくわかるのが、前半のショパン作品だった。どの曲にも複数の小さな山場があり、それをある程度は盛り上げないことには音楽はつまらなくなってしまう。が、それをその都度弾き手がいい気分になって盛り上げすぎてしまうと、本命の山場、頂点の効果が大きく損なわれることになる。そして、少なからぬ演奏家がこのミスを犯してしまう。その点、中野の「音楽ドラマ」の語り口はまことに巧みであり、聴き馴れた作品で新鮮な感動をもたらしてくれた。のみならず、4つの曲が1つの大きなドラマであるかのように感じられ(もしかして、そうしたことを意識して選曲し、演奏がなされたのかもしれない。たとえば、最初の《舟歌》などでは、まさに「序」の性格を私は感じたが、もし、この曲が冒頭に置かれなかったのならば、たぶん、もっと違った演奏解釈を中野はしたのではなかろうか?)、ポロネーズの最後の和音が鳴り響いた瞬間、大きなカタルシスを覚えずにはいられなかった。
ともあれ、今回も本当にすばらしい音楽を聴かせてくださった中野先生には心の底から感謝したい。どうもありがとうございました。