2023年12月31日日曜日

2023年も今日で終わり

  2023年も今日で終わり。今年はなんとなく停滞の一年だったが、自分についての気づきもいろいろあった。来年以降に活かしていきたいものだ。

「あれもこれも」の時期はもちろん、今や「あれかこれか」の時期さえも過ぎている。すなわち、もはや「これだ!」でやっていかなければならないわけだが、幸い今年はそれが何かがわかったような気がした。となると、後はそれを実行しさえすればよい。あとどれだけ生きるかことになるかはわからないにしても、最後に後悔せずにすむように……。

 

先日、たまたまFMで山下和仁の編曲・演奏でストラヴィンスキーの《火の鳥》組曲を聴いた。随分昔に評判になった演奏だが、今改めて聴き直してみると、やはり凄い。超絶技巧もさることながら、ギター一挺で何ら不足を感じなせない表現力にただただ圧倒される。管弦楽による原曲の演奏でこの山下に匹敵できるものが果たしてどれだけあるだろうか。この《火の鳥》がすっかり気に入ったものだから、ディスクを購ってしまった。それには他にもムソルグスキーの《展覧会の絵》が収められており、これも凄い。

 だが、実は山下の録音で私がずっと聴いてみたいと思っているのは、フェルナンド・ソルのギター独奏曲全集(CD16枚!)だ。これはすでに生産中止なので、いつか復活してくれないかなあ。

 

2023年12月22日金曜日

今日

  今日、母が亡くなった。覚悟はしていたので、意外にショックは少ない(が、後から響いてくるかもしれない)。母との間にはここ数年、実にいろいろな難儀なことがあり、わかったことがある(自分自身が抱えていた問題点についても)。その結果、己の来し方と行く末についていろいろと考えさせられた。ともあれ、己も人も欺かず、人には親切にしなければ……。

2023年12月17日日曜日

メモ(105)

  作曲家が亡くなれば、作品の原稿が遺される。が、こんなご時世だけに、かなり名の通った人のものであってもその引き取り手を見つけるのはなかなかに難しいようだ。とはいえ、そうした作曲家の作品が四散してしまい、行方不明になってしまったとしても、それも運命というものなのかもしれない。 逆に、そうして埋もれた作品の中で、未来に復活するものがあることもまた。

 

 最近の輸入楽譜の高値にはびっくり。円安も1つの原因ではあろうが、元々の売価が上がっているということもあろう。たとえば、東京の某楽譜店のサイトを見てみると、デュカスのピアノ・ソナタに何と約15000円という値段がついている(まあ、この店は概して価格設定が高い――ので私は利用しない――のだが、同じ楽譜が大阪のササヤ楽譜で最近見たところでは10000円ほどであった)。これではほとんどの人には手が出まい。すると、この名作を知りたい人の多くはIMSLPからデータをダウン・ロードするしかないだろうし、そうなると楽譜はいっそう売れなくなり、さらに価格が上がることに……。クラシック音楽界の衰退ぶりはこのようなところでもうかがうことができるわけだ。

2023年12月8日金曜日

オーマンディとフィラデルフィア管の録音を楽しく聴く

  ユージン・オーマンディ(1899-1985)が指揮したフィラデルフィア管弦楽団の録音をあれこれ聴いているが、なかなかに面白い。中にはプロコフィエフの第7交響曲のように、作曲されてからさほど時を経ずに録音されたものや、録音当時にはまだ新しかったアメリカの作品なども含まれており、歴史ドキュメントとしても興味深い。

ところで、彼らの音楽のありようは「本場」欧州のものとは違うところがいろいろあるのだろうが、日本人がそれを「所詮、アメリカ流の音楽だなあ」などと言うならば(昔の音楽評論家には――言い方はそこまで露骨ではないにしても――そう言う人がいた。柴田南雄のような人でさえそれに類することを述べているからオドロキである)、それはいかがなものか。さすがに今やそんなふうに言う人は少なかろう。おそらく、現在の聴き手はその「違い」を楽しめるようになっているだろうし、そうした音楽のありようからいろいろなことを考えるのではなかろうか。

 

 以前ここで話題にしたドイツ・グラモフォンの『アヴァンギャルド』ボックスも聴き始めた。真っ先に手が伸びたのはリュック・フェラーリの作品を収めた1枚。《ソシエテⅡ》(https://www.youtube.com/watch?v=AYy7dKTFHbo)など、今演奏会で取り上げられてもおかしくないと思う。とはいえ、他の少なからぬ作品にはもはやアクチュアリティはない。が、「歴史の一コマ」と割り切って聴く分には実に面白いし、いろいろと考える材料を提供してもくれる。

2023年11月29日水曜日

安っぽいコラージュ作品?

  今日、たまたまラジオで次の曲を聴く:https://www.youtube.com/watch?v=BNo1LX0o4g8

これが収められているアルバムについてはこう説明されているので参照されたい:https://www.hmv.co.jp/artist_harikuyamaku_000000000561150/item_Mystic-Islands-Dub_14220119。私はこうしたものは好きではない。まるで現代アートの安っぽいコラージュ作品のように感じられるからだ。

これが録音された民謡ではなく、生演奏の民謡との絡みであったのならば、もっと違った面白さが生まれたと思う。というのも、そこには両者の間で相互作用があるからだ。ところが、DUBミックス」というものではそうはならない。それは一方的に何かを貼り付けるだけだからだ。もちろん、その「貼り付け」た結果が面白ければ問題はないし、この制作方法自体を否定するつもりは毛頭ない。が、今回のものについては私には全くチープにしか聞こえなかったのである。残念(まあ、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎず、これを楽しく聴ける人も少なからずいよう)。

それにしても、 このように既存の楽曲なり素材なりに大きく依拠した創作は、一から自分の手になる作品の場合よりも格段に優れたセンスが要求されるようだ。クラシック音楽の「現代音楽」でもコラージュ作品や「換骨奪胎」作品、「寄生」作品はあれこれあるものの、説得力を持つものはそれほど多くはない。が、中には本当にすばらしいものもあるし、ポピュラー音楽の世界でもそうしたものは当然あるはずだ(たんに私が無知なだけである)。さすがにそれを積極的に探し求める時間はないものの、何かの偶然の機会にそうしたものに出会えればうれしい。

2023年11月21日火曜日

動機のモザイクとしてのソナタ

  スクリャービンの後期ソナタで「塗り絵」をしていると、いろいろなことがわかる。たとえば、そこには動機の「展開」はほとんどない。あるのはいわば動機(あるいは、旋律や音型)の「モザイク」なのだが、それで充分音楽の持続を生み出せている。もっとも、ピアニストにとってそれはかなりの難物であろう。だが、だからこそ、うまくいった演奏(さほど多いとはいえないが……)には得も言われぬ味わいがある。

 

 音楽の「ながら聴き」には「集中的聴取」にはない面白さがある。今日、昼にうつらうつらしながらシベリウスの第2交響曲を聴いたが、それは何とも不思議な体験だった。たとえば、普通に聴いていれば短い時間しか要しない箇所であっても、半分寝ているのでなんだかとても長いものに感じられたり、あるいは、突然意識される部分がそれまでの音楽の流れと繋がりを欠いているがために全く新鮮なものに聞こえたりするなど、とにかく、まことに幻想的だったのである。 

 

 午前中にはたまたまつけたラジオでドヴォジャークの弦楽セレナードをやっていたが、つい聴き入ってしまった。何とよい音楽であろうか。  

 

 宝塚歌劇の醜聞を耳にし、ふと宮澤賢治の「猫の事務所」という話を思い出す。そこでは猫の間で虐めがあり、結局、獅子が「えい。解散を命ずる」ということになってしまうのだが、宝塚にもそんな獅子が現れればよいのに、と思ってしまう。いや、それは宝塚に限ったことではあるまい。

 なお、その物語の締めくくりは語り手の次のような台詞である――「 ぼくは半分獅子に同感です」。ここで「半分」というところがミソであろう。では、残り「半分」は? それはおそらく、こういうことではないか。つまり、「猫の事務所」での問題は当事者間でうまく解決すべき事柄であり、それを「獅子」という「外」の、しかも大きな力を持つ者がするのはあまり好ましくない、ということだ。宝塚の場合もしかり、ジャニーズの場合もしかり、そして、その他多くの場合もまた。だが、この国の歴史を振り返ればわかることだが、大変革は得てして「外圧」がもたらしている、ということだ(情けないことに)。とはいえ、いつまでもそのパタンを繰り返せばよいというものでもあるまい。

2023年11月13日月曜日

メモ(104)

  ミラン・クンデラは「ストラヴィンスキーに捧げる即興」(『裏切られた遺言』(西永良成・訳、集英社、1994年)所収)の中でアドルノの『新音楽の哲学』におけるストラヴィンスキー批判を批判している。昔々に読んだときにはそれほど気にならなかったが、今の私にはクンデラの言葉は腑に落ちる。

2023年11月7日火曜日

ぐっと読みやすく[追記あり]

 上の譜面はJ. S. バッハの 《平均律クラヴィーア曲集第1巻》のフーガ第24番。声部毎に色を変えた(全声部共通の黄色はタイで繋がれた(つまり、打鍵し直さない)音)。こうすると声部進行は一目瞭然。

 下の譜面はスクリャービンの第9ソナタ。赤はフラット(ここでは用いていないが紫はダブル・シャープ)、緑はシャープ、水色はダブル・シャープ、黄色は上の例に同じ。機能調性に収まらない曲や臨時記号のやたらに多い曲はこうすると格段に読みやすくなる。

 「塗り絵」と侮るなかれ。この作業をするには注意深く楽譜を読まねばならず、写経(写譜)に準ずる効果がある。とりわけバッハについては、ポリフォニーが苦手な学習者にこれをやらせてみるとよいのではなかろうか。

 なお、彩色に用いたのは三菱鉛筆の「ポスカ(極細)」。これはスグレモノだ。




追記:何としたことか、ポスカで塗った色はそれほど時を経ずして褪せてしまうことが判明した。これは困る。そこで透明の合成樹脂塗料を上塗りしてみた。これで事態が改善されればよいのだが……。

2023年11月2日木曜日

スコットランド交響曲

  メンデルスゾーンの「スコットランド」交響曲は通称であって、本人が付けた名前ではないのは周知の通り。とはいえ、この曲の端緒が作曲者のスコットランド旅行にあったのは確かなので、その通称をわざわざ否定する必要はあるまい。

ちなみに、この曲はヴィクトリア女王に献呈されている。彼女はスコットランドを実質的に傘下に収めたグレートブリテン王国の後継国家たるグレートブリテン及びアイルランド連合王国の長であり、仮にそのような人物に「スコットランド」と銘打たれた作品が献呈されていたとすればかなりブラックなことであったろう。だが、もちろん、そのようなことはなかったわけであり、初版のスコアの曲名には「交響曲第3番」としか記されていない。

それにしても、この「スコットランド」交響曲は何とすばらしい作品であろうか。恥ずかしながら、その見事さを私が実感したのはそう遠い過去のことではない。たぶん、他にも世にいわれる「名曲」について、そうした見落としはいくらでもあることだろう。また、逆にこれまで自分がすばらしいと思っていた作品が実はそれほどのものではなかったと感じることも少なからず起こりえよう。まあ、それが「生きている(つまり、良くも悪くも昔の自分は今の自分と同じではない)」ということなのであろうか。

2023年10月26日木曜日

解体寸前のスコア

  手元にあるアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲のスコアがいよいよ解体寸前に。そこに書き込まれている購入日を見ると、「1983. 6. 4」とあった。つまり、今からちょうど40年前のことになる。これでは解体しても仕方がない……いやいや、そんなことはない。それよりも前に購っている日本の楽譜は今でも全く問題ないのだから。ベルクの発行元であるUniversal社の製本が日本のものに比べて雑だったのである。

 まあ、解体しても使えなくはないので、もうしばらくはこれを持ち続けることにしよう。だが、いずれは買い替えねばなるまい。同曲は現在、もう少し大きな判型で印刷されており、その方が格段に読みやすいからだ。歳を取り、だんだん小さな字や音符を読むのが辛くなってきたわけである。まあ、仕方があるまい。 

 では、耳は? こちらも昔に比べれば何かしら衰えているはいることだろう。が、それはあくまでも小さな音や高い音が聞こえにくくなった(という自覚はあまりないのだが……)であろうということであって、音楽を聴く耳は若い頃に比べて精緻になっているはずだ(と思いたい……)。

 

 ところで、件の協奏曲を知った1983年は私は17歳になる年だったが、今年17歳の若者が同曲を知ったとすれば、それは88年前に生まれた作品だということになる。では、17歳当時の私にとって88年前の作品といえば何か。たとえば、ブラームス晩年の作品などがそうだ。それはもはや「古の音楽」だったわけだが、してみると、今の若者にとってはベルクもそうなのだろうか。 それとも、そのようには聞こえないのだろうか。ちょっと尋ねてみたい気がする。

2023年10月22日日曜日

メモ(103)

  日本の洋楽受容において「日本語」は創作と演奏の両面でいわば障壁となっていたし、今でも少なからずそうだろう。このことをすべて否定的にとらえる必要はないし、そこに肯定的な意味も見いだせることもあるだろうにしても、とにかく、今や冷静に検証されるべき時が来たように思われる。

2023年10月17日火曜日

クレンペラーのストラヴィンスキー

  オットー・クレンペラーが指揮したストラヴィンスキーの《3楽章の交響曲》を久しぶりに聴いてみた。これがまた何ともすばらしい。今まで聴いた中で最高ランクの演奏である。では、何がすばらしいのか。それは音楽の軽やかさと響きの透明さである。「中庸な表現」と言い換えてもよい(この点でたいていの指揮者は「やりすぎ」か「やらなさすぎ」だ)。もちろん、だからといって、緊迫感にも欠けていない。
 クレンペラーとストラヴィンスキーは全くの同時代人であり、その時代の感覚を共有している。また、前者は作曲も手がけ、「創造」のなんたるかもわかっており、演奏をたんなる「再現」だとは考えていない。
 もちろん、クレンペラーが指揮したドイツ、オーストリアの古典、あるいはマーラーなども見事だ。が、それ以上に私はストラヴィンスキーの演奏に心惹かれる。ああ、それなのに……クレンペラーが遺してくれた録音は数少ない。残念至極。

2023年10月12日木曜日

《ナゼルの夜会》の標題の訳しにくさ

  プーランクの佳品、《ナゼルの夜会》はなかかなにとらえどころのない曲集であるが、そこが魅力的でもある。全11曲中、「変奏」と銘打たれた8曲に意味深な標題が付けられている。それだけにうまく訳するのが難しい。

 たとえば、変奏1Le comble de la distinction〉は「分別の極み」と訳されることがあるが、distinctionには気品、洗練、優雅という意味もあり(こちらの方だと解して、「やんごとなさ」という訳語をあてる場合もあるようだが、これはちょっとやりすぎかもしれない)、こちらでも意味は十分に通る。だが、「分別」と訳す場合とでは作品解釈はおよそ異なったものにならざるをえない(私は「分別」はたぶん誤訳だと思うが、そう言い切るだけの自信はない)。

 また、変奏4La suite dans les idées〉は「思索の続き」と訳されることもあるが、これは誤訳であろう。なるほど、suiteには「続き」という意味はあるが、もし、「~の続き」という意味になるのならば、前置詞はdansではなくde(それゆえ、ここでは定冠詞lesと融合してdes)になるのではないか? となると、このsuiteは「一貫性」の意味だと解する方が適切であろう(CollinsLe Robert French Dictionaryを見ると、suiteの訳語の1つとしてcoherenceをあげており、次のような例文があげられている:il y a beaucoup de suite dans son raisonnement.)。それゆえ、曲名を「一途」と訳す人もいるようだが、これはわかる(が、「一貫性」と「一途」とでは些かニュアンスが違っているような気もする)。

 変奏8L'alerte vieillesse〉は「老いの警報」と訳されることがあるが、これもどうだろう? その場合、alerteを名詞と取っているわけだが(同じ綴りの形容詞の場合には「[年の割には]機敏な、すばしっこい」とか「生き生きした」という意味)と名詞の両方があるが、意味は全く異なる)、そうなると、vieillesseという名詞はどうすればよいのか? その点、「年をとっても明るく元気」という少し盛りすぎだが、まあ、訳語としては理解できる。

 かく言う私もフランス語の微妙なニュアンスがわかるわけではない。それゆえ、この《ナゼル》の標題については音楽に詳しいフランス文学専攻者がきちんと訳し直してくれれば、この曲集を取り上げるピアニストにとっても、聴き手にとってもありがたい。

2023年10月3日火曜日

ライリーが日本在住だとは

  私はいわゆるミニマル・ミュージックを基本的には好まない。とりわけ、スティーヴ・ライヒとフィリップ・グラスの音楽は耐えがたい。が、好ましく感じるものもある。たとえば、テリー・ライリーの音楽やシメオン・テン・ホルトの《カント・オスティナート》などがそうだ。私の好き嫌いを分ける点は「押しつけがましさ」や「暴力性」である。ライヒらの音楽には私はそれを強烈に感じる一方、ライリーの音楽には感じず、むしろ安らぎを覚える(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない。ライヒらの音楽を好む人たちはこれとは違った聴き方をしていることであろうし、それはそれで大いにけっこうなことだと思う)。それゆえ、時折、後者らの音楽を聴きたくなるわけだ。

 そのライリーが現在日本在住だとは知らなかった。それにはコロナが関係していたとか(https://tower.jp/article/feature_item/2023/09/05/1110)。つまり、「ご縁」があったわけだ。ならば関西でも演奏会をしてくれないかなあ。

 

 こもっとも: https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f4b13f18d1907d81d0b0e0f3246461cd7506dee2

2023年10月2日月曜日

田隅靖子 ピアノ・リサイタル~ピュイグ=ロジェ先生の想い出に~

  珍しくも2日続けて演奏会に(投稿は深夜12時すぎなので日付は2日だが、演奏会は1日のことである)。しかも、奇しくも会場も同じ。たぶん、こんなことはもう二度とあるまい(と思うほどに、私は出不精である)。その演奏会は「田隅靖子 ピアノ・リサイタル~ピュイグロジェ先生の想い出に~」(於:京都コンサートホール、小ホール)。演目は次の通り:

 

フォーレ:ノクターン第1番 作品33-1

フランク:プレリュード、フーガと変奏曲 作品18

サン=サーンス:アレグロ アパショナート 作品70

オネゲル:3つの小品

 

ドビュッシー(カプレ編曲):春のロンド(2台ピアノ)

ラヴェル:ラ ヴァルス(2台ピアノ)

*[共演(第2ピアノ)]大谷正和

 

 当日のプログラムノートによれば、田隅先生は「関西日仏会館で1979年に来日間もないアンリエット・ピュイグ=ロジェ先生のレッスンを初めて受け」、以来、「お宅へレッスンを受けに、10年あまり毎月京都から通っていた」とのこと(レッスンで取り上げられた曲の中にはデュカスのソナタもあったとのことだが、これは是非聴いてみたかった!)。さぞかし密度の濃い時間であったことだろう。その師の「想い出」に寄せる演奏会ということで、演目にはフランスものが並ぶわけだが、例によって田隅先生ならではの「月並みではない」選曲である。

 前半の独奏曲はいずれも一見淡々とした表現の中にも、はっとさせられる瞬間がしばしばあった。演奏の随所に小さな綻びはあったものの、そのことで音楽の内的持続は微塵も妨げられない。とりわけ味わい深かったのがフランク作品。プログラムノートでは終わりの変奏曲の部分が「天からの賜物のような」と形容さているが、この日の演奏にもその趣きがあった。また、オネゲル作品は今回初めて聴いたが、これも実に面白い。

 後半は2台ピアノ。ラヴェルの《ラ・ヴァルス》は今や定番中の定番だが、それでも実演で聴く(観る)と楽しい。だが、それ以上に魅力的だったのがドビュッシー〈春のロンド〉だ。これまで自宅でCDの録音を聴いていたときにはこのピアノ編曲にはどこか物足りないものを感じていたのだが、実演で豊かな色彩と躍動感溢れる音楽に触れるとそうした不満は吹き飛び、まことに幸せな気分になった。

 というわけで、素敵な演奏を聴かせてくださった田隅先生(そして、大谷さん)、どうもありがとうございました。

2023年9月30日土曜日

中瀬古和 没後50周年レクチャーコンサート

  今日は次の演奏会を聴いてきた。以前から楽しみにしていたものだ:https://choruscompany.com/concert/230930nakasekokazu/。中瀬古和(1908-73。その経歴については前記リンク先を参照)の名前こそ知ってはいたものの、作品に触れたのは今回が始めてである。それだけに若干の不安もあったものの、とても楽しく聴くことができた。レクチャーも懇切丁寧でよかった。

 最初のピアノ曲を聴いたときに感じ、最後のヴァイオリン独奏曲に到るまでその感じ方でずっと変わらなかったことがある。それはつまり、作曲者の自己顕示欲のなさだ。普通、「創作」に携わる者は、大なり小なり、自分の中にある何か、「人が何と言おうと、とにかく自分は……」というものを外に示したいとの欲求を持っている(さもなければ、古今の数多ある名作を前にして、わざわざ自分の作品をそこに加えようなどと思えるはずもない)。ところが、今日の中瀬古の作品にはそうしたものがほとんど感じられなかったから驚く。しかも、だからといって、決してありきたりの音楽ではなかった。そして、その「清澄さ」には胸を打たれずにはいられなかった。

 ところで、中瀬古の音楽には対位法がいろいろと駆使されているにもかかわらず、露骨にそのようには聞こえない。決して単純なホモフォニーではないものの、ポリフォニー音楽ともどこか異なる風情が感じられるのだ。また、主題や素材が緻密に展開されているわけではなく、まるで連歌のように緩やかな繋がり(中心となる音も1つではない)でもって音楽が繰り広げられているように聞こえた。こうした中瀬古の音楽のありようを「日本的」というとすれば些か単純すぎようが、とにかくそこにはたんなる西洋音楽のコピーではない、何かしら独自の工夫があるのは確かであろう。

 本日取り上げられた作品はどれも聴き応えがあった。声楽曲はいずれも聖書の詩篇がテキストだったので、クリスチャンではない私には隔靴掻痒なものであったが、これらを信者として歌い、聴ける人の喜びはなんとなくわかるような気がする。また、弦楽四重奏曲第2番(ということは第1番もあるわけだろう。是非とも聴いてみたいものだ)での種々の「遊び」も忘れがたい。そして、最後に演奏された《ヴァイオリン独奏のためのムーヴメンツ》の飄々としたありようには本当に魅せられた。というわけで、本日の催しの企画運営者、演奏者、そして、今は亡き作曲者に心からの御礼を。

2023年9月27日水曜日

『判断力批判』の新訳

  今日大学に行く途中で寄った本屋で、中山元訳のカント『判断力批判』が出ているのを見つけた(https://www.kotensinyaku.jp/books/book383/)。「ついで出たか!」と思い、手にとってぱらぱらとめくってみる。以前購った(かなり高価だった!)もののあまりにけったいな日本語に呆れて処分した某氏の訳書よりは格段に読みやすそうだった。さて、実際にはどうだろうか(現時点で1つだけ気になったのが、'schöne Kunst'という語を「美しい芸術」と訳していたことだ。これでは「馬から落馬する」のと同様な言い方に感じられる)。そのうち読んでみたい。

 

 子供に「変奏曲」というものを説明するのにこの譬えは……(次の動画の4’57”あたりから):https://www.youtube.com/watch?v=Uw-ZnLS-XNg)。面白いのは確かだが、かなりブラックだなあ。これを観た子供の感想を聞いてみたいものだ。なお、その後で青島氏が弾くピアノはまさに「作曲家のピアノ」であり、聴いていて楽しい。

2023年9月23日土曜日

分析方法の射程外

 ドビュッシーの《前奏曲集 第1巻》の第2曲〈帆〉について、島岡譲・他『総合和声――実技・分析・原理』(音楽之友社、1998年)ではその和声構造を次のように分析している:

 


 (同書、479頁)

なるほど、確かに機能和声の観点から分析すればこのようになるのかもしれないが、それで本当に音楽の実質をとらえたことになるだろうか?

 私はそうではないと考える。というのも、実際にこの曲を聴けば、何か違ったふうに感じられるからだ。まず、ACの保続低音たる変ロ音はこの部分の響きを支える土台として十分安定性を持っており、ドミナント和音の根音――すなわち、主音への解決を期待させる音――などには感じられない。しかも、そもそもA(C)とBではモードが異なるわけで(AC)は全音音階、Bは5音音階(であって、変ホ調ではない。だからこそ、この部分は♭5つになっているわけだ)。前者はその浮遊感に意味があるのであって、それは何らかの解決を必要とするものではない)、その変化を「ドミナント→トニック→ドミナント」ととらえるのは無理があるのではないか。にもかかわらず、そのように分析してしまうのは、「機能和声」の図式を前提にこの曲を見ているからだろう。だが、それではこのまことにユニークな音楽の肝心の部分を見損なってしまうのではなかろうか。

 『総合和声』の分析・理論面での記述は調性(機能和声)音楽のありようをとらえる上でまことに役に立つ優れたものだと思う(この部分だけ切り離して、用語や言葉遣いをもっと平易なものとして出版すれば、演奏系の学生に歓迎されるのではなかろうか)。が、このドビュッシー作品についていえば、選曲ミス、すなわち、同書の分析方法の射程外にあるものであろう。 まことに楽曲分析というのは難しいものである。

2023年9月21日木曜日

『青島広志の東京藝大物語』

  『青島広志の東京藝大物語』(夕日書房、2023年:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784334990152)をご近所図書館で借りて読んだが、なかなか面白かった。著者はすでに『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)で自身の来し方について少なからず語っているが、今回の『物語』はいっそう充実した(!?)内容を持つ。あまりに狭い特殊な世界を描いたものだけに読者数はかなり限られるかもしれないが、「人間的な、あまりに人間的な」種々のエピソードを私は楽しく読んだ。そして、このように愛憎入り乱れる話を一見淡々とした、だが、時折情念の炎を垣間見させる筆致で描き出し、最後まで一気に読ませる著者の筆力には感服した。

 なお、同書では実在の登場人物が「仮名」で呼ばれているが、日本の作曲界にある程度通じた読者にとってはこの仮名はあまり意味を持つまい。多くの人物について本名の察しがすぐにつくからだ(たとえば、「森揮一」など。この超一流の音楽家についてはいくらか辛辣に描かれているが、それを読んでも私は少しも驚かず、むしろ、「さもありなん」と思った。逆に驚いたのは「六森利忠」と名付けられた人物のことである。私は以前、たまたまこの人のブログ――もちろん、実名でのもの――を読み、篤実な音楽理論家だと思っていたのだが、著者の言うことが本当だとすれば、なかなかに難儀な人のようだ)。にもかかわらず著者が仮名を用いたのは、ギャグやカリカチュアとしての効果を狙ったからであろうか?? 

2023年9月18日月曜日

今日も懲りずに

  少年時代、ピアノに向かっていたときは、きちんと練習することはほとんどなく、もっぱら興味関心のある曲を好き勝手にかじっていた。とにかく指で音を辿ってゆき、それが済んだら別の曲に移る、というふうに。おかげで多くの作品を身をもって知ることができたし、読譜力(+初見力)はついたが、ピアノの弾き方は身につけ損なった。

 今でも懲りずにいろいろな曲に鍵盤上で触れているが、聴くだけでは味わえない楽しみや喜びがあるので、これは一生止められまい。今日もメシアンの〈喜びの精霊の眼差し〉の数小節に「触って」いたが、ごてごてしていながらも透明感のある和音が持つ異様なテンションと官能性に陶然とした。

 

 ごもっとも:https://news.yahoo.co.jp/articles/c10ad3953cb5769bb407a66ba113b25c73f0b7ce?page=3

 

2023年9月12日火曜日

中野慶理ピアノリサイタル

  「この曲でまだこんなことができるのか!?」――よく知っているつもりの名曲の数々でそんな驚きを随所でもたらしてくれるとともに、個々のドラマを存分に味わわせてくれたのが昨晩催された中野慶理先生のピアノ・リサイタルである(於:いずみホール(大阪))。

 演目は次の通り:

 

ショパン:舟歌 嬰ヘ長調 op. 60

       夜想曲 ロ長調 op. 621

       バラード 4 ヘ短調 op. 52

       ポロネーズ 7 変イ長調「幻想ポロネーズ」op. 61

 

ドビュッシー:前奏曲集 1

 

もちろん、オーソドックスな演目だとはいえ、すべてをしかるべき水準の演奏で聴かせるのはそうたやすいことではない。が、この日の演奏はそうしたことに留まるものではなかった(以下、敬称略)。

 まず、驚きの例を1つあげよう。それは演奏会後半に弾かれたドビュッシーの《前奏曲集 第1集》の第1曲〈デルフィの舞姫〉冒頭でのことだ。下の譜例(初版)にあるように、ここにはペダル記号が記されていない。

 

 


 

が、ここではペダルを用い、1拍毎に踏み換えて弾くのが普通である(作曲者自身のピアノ・ロールでの演奏でもそうなっている)。だが、そうなると、4分音符の和音にあるスラー付きのスタッカートの意味がかなりのところ失われてしまう。というのも、それは和音の弾き方――打鍵の際のニュアンス――には反映されはしても、その後にペダルのために音が保持されてしまうからだ。ところが、中野はここでペダルを拍の終わりまで踏み続けず、和音の保持を適度なところで切り上げていたのである。それはまさに「スラー付きのスタッカート」であり、これが従来の弾き方よりもいっそう鮮明に浮かび上がった真ん中の旋律を包み込むのだ。 

 こうした「驚き」がこの日の演奏では数多くあり、しかもそのいずれもがしかるべき効果をあげ、音楽として説得力を持っていたのであり、そのこと自体がまた驚きであった。それは当日のすべての演目について言えることだが、とりわけドビュッシー作品について強くそう感じた。そして、そうした見事な解釈を示した中野の演奏に圧倒されるとともに、それを可能ならしめた作品の懐の深さに感じ入った次第。

 さて、この日の演奏でもう1つ、感銘を受けた点がある。それは「無駄な山場がない」ことだ。ラフマニノフは楽曲には「1つのポイント」があり、それを演奏はとらえなければならないと述べているが、中野の演奏はまさにその好例だと言えよう。そのことがよくわかるのが、前半のショパン作品だった。どの曲にも複数の小さな山場があり、それをある程度は盛り上げないことには音楽はつまらなくなってしまう。が、それをその都度弾き手がいい気分になって盛り上げすぎてしまうと、本命の山場、頂点の効果が大きく損なわれることになる。そして、少なからぬ演奏家がこのミスを犯してしまう。その点、中野の「音楽ドラマ」の語り口はまことに巧みであり、聴き馴れた作品で新鮮な感動をもたらしてくれた。のみならず、4つの曲が1つの大きなドラマであるかのように感じられ(もしかして、そうしたことを意識して選曲し、演奏がなされたのかもしれない。たとえば、最初の《舟歌》などでは、まさに「序」の性格を私は感じたが、もし、この曲が冒頭に置かれなかったのならば、たぶん、もっと違った演奏解釈を中野はしたのではなかろうか?)、ポロネーズの最後の和音が鳴り響いた瞬間、大きなカタルシスを覚えずにはいられなかった。

 ともあれ、今回も本当にすばらしい音楽を聴かせてくださった中野先生には心の底から感謝したい。どうもありがとうございました。