2020年6月30日火曜日

折衷様式?

 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがある時期以降に録音したシューベルトの歌曲を聴くと、概ね現代の口語発音に拠っていることがわかる(このことは以前、ここで話題にした)。ここで「概ね」というのは、「すべて」ではないからだ。たとえば、語末のアクセントのないrerは口語式に[ɐ]と発音しているのに、それ以外のrは[r]、つまり、舞台発音と同じ「巻き舌」で歌っている(口語での発音は[ʁ]もしくは[ʀ](前者が正しいとする本もあれば、後者が普通だと説く本もあった。さて、実際はどっちなのだろう? が、いずれにせよ、これらの発音は[r]とはかなり異なる))。たぶん、それには演唱上のしかるべき理由があるのだろう。
 日本語でも歌唱のための発音がこれまであれこれ試みられているが、まだ決定版は確立されていないようだ(それにはもちろん、日本語の音に合わない作品が少なくないという理由もあろうが)。それ(と素晴らしい作品の登場)は今後に期待したい。

 昨日は武満の1970年代までの作品をいくつか聴いていた。やはりこの時期の彼の曲には緊張感があってよい。たとえば、《地平線のドーリア》 (1966)を私はこよなく愛する。奇しくも私が生まれた年に書かれた作品だ(手持ちのスコアを見ると、「1982.5.9」と購った日付が記されていた)。

2020年6月29日月曜日

母語の干渉

 金沢生まれの私が「大学」という語を発音すると、その中の「が」の音は鼻濁音のŋaになる。他方、大阪に生まれ育った妻や娘の発音は[ga]である。探せば他にもいろいろと発音の違いが見つかるに違いない(この[ŋa]と[ga]の違いについては、次のものを読むまで全く気づかなかった(恥):神山孝夫『[新装版]脱・日本語なまり――英語(+α)実践音声学――』(大阪大学出版会、2019年))。
 それでも家族でコミュニケーションに支障が生じないのは、そうした発音の違いが語の弁別に影響を及ぼすものではないからだ。また、多少アクセントが異なっても、方言特有の言い回しを用いない限りは、まず話は通じる。
 ところが、これが外国語となるとそうはいかない。ちょっとした発音の違いが語の弁別に影響し、意味が変わってしまう。これは面白いといえば面白いし、恐ろしいといえば恐ろしい。
 そこで外国語を話し、聞こうとすれば、まずは文字と語の正確な発音を習得しなければならない。その際、足を引っ張るのが「母語の干渉」である。すなわち、日本人の場合には、日本語で染みついた音の発音・聴取の習慣が日本語にはない音の処理を邪魔する、ということだ。外国語を発音する際には日本語の「なまり」が生じ、「聞く」際には日本語にある音しか聞こえない、というふうにだ。そこで、こうした「母語の干渉」をいかに排除し、外国語の音に耳(と口)を開くかが、外国語習得の鍵を握ることになる(このくだりも前掲書に教わっている)。
 さて、実は同じことは日本(語)人が行う「西洋音楽」についても言えるのではないだろうか(と私は疑っている。この点はこのブログでも繰り返し話題にしている)。ただ、普通の言語と異なり、「日本(語)なまり」の西洋音楽であっても、それが日本国内に留まるものであれば何の問題も生じないし、細かいことに目くじらを立てる必要もない(どころか「野暮」である)。
 が、それはそれとして、日本(語)人の西洋音楽がどのように「なまって」いるかに私は大いに興味を覚える。そして、そのことを欧米人が心の底ではどう思い、感じているのかについても。いずれも単純な好奇心のゆえに(であって、欧米人に対する劣等感のゆえでもなければ、民族間の対立を煽りたいからでもない)。また、「違い」を知ることはコミュニケーションにとっても有益だから。

2020年6月28日日曜日

「写経」の楽しみ

 楽譜を「写経」しているといろいろなことに気づく。耳(や楽器を弾き、歌う身体)を楽しませてくれる作品の仕掛けや工夫の数々に唸らされ、感嘆させられ、驚かされ……。
 もっとも、「写経」でわかるのは作品の長所や美点ばかりではない。逆に短所やつまらない点もあれこれ見えてくるのだが、そこがまた面白い。たとえば、妙に冗長な部分だとか、「理屈」先行で音楽の実質が乏しい箇所だとかが、世間で「名作」だとされているものの中にもあれこれ見つかるのだ。
 もちろん、そうした「長所」にせよ「短所」にせよ、あくまでも「写経」を行う者の「解釈・読解」に基づく判断であって、その内実は人によってさまざまだろう。が、いずれにせよ、「写経」もまた(楽譜を黙読することとともに)、作品に触れ、味わう1つの形態であって、そこには作品を聴いたり演奏したりするのとは違った楽しみや喜びがある。

 暑い日が続くと、もうベートーヴェンなどは聴いてはいられない。というわけで、今日は湯浅譲二(1929-)の作品をいくつか聴いていた。管弦楽のための《芭蕉の情景》(1980)は大好きな作品であり、その音響空間と時間の構成には本当に魅せられる。