金沢生まれの私が「大学」という語を発音すると、その中の「が」の音は鼻濁音の[ŋa]になる。他方、大阪に生まれ育った妻や娘の発音は[ga]である。探せば他にもいろいろと発音の違いが見つかるに違いない(この[ŋa]と[ga]の違いについては、次のものを読むまで全く気づかなかった(恥):神山孝夫『[新装版]脱・日本語なまり――英語(+α)実践音声学――』(大阪大学出版会、2019年))。
それでも家族でコミュニケーションに支障が生じないのは、そうした発音の違いが語の弁別に影響を及ぼすものではないからだ。また、多少アクセントが異なっても、方言特有の言い回しを用いない限りは、まず話は通じる。
ところが、これが外国語となるとそうはいかない。ちょっとした発音の違いが語の弁別に影響し、意味が変わってしまう。これは面白いといえば面白いし、恐ろしいといえば恐ろしい。
そこで外国語を話し、聞こうとすれば、まずは文字と語の正確な発音を習得しなければならない。その際、足を引っ張るのが「母語の干渉」である。すなわち、日本人の場合には、日本語で染みついた音の発音・聴取の習慣が日本語にはない音の処理を邪魔する、ということだ。外国語を発音する際には日本語の「なまり」が生じ、「聞く」際には日本語にある音しか聞こえない、というふうにだ。そこで、こうした「母語の干渉」をいかに排除し、外国語の音に耳(と口)を開くかが、外国語習得の鍵を握ることになる(このくだりも前掲書に教わっている)。
さて、実は同じことは日本(語)人が行う「西洋音楽」についても言えるのではないだろうか(と私は疑っている。この点はこのブログでも繰り返し話題にしている)。ただ、普通の言語と異なり、「日本(語)なまり」の西洋音楽であっても、それが日本国内に留まるものであれば何の問題も生じないし、細かいことに目くじらを立てる必要もない(どころか「野暮」である)。
が、それはそれとして、日本(語)人の西洋音楽がどのように「なまって」いるかに私は大いに興味を覚える。そして、そのことを欧米人が心の底ではどう思い、感じているのかについても。いずれも単純な好奇心のゆえに(であって、欧米人に対する劣等感のゆえでもなければ、民族間の対立を煽りたいからでもない)。また、「違い」を知ることはコミュニケーションにとっても有益だから。