ところが、後年、この曲の楽譜を見て驚いた。これが何とも歌いにくい曲だったからだ。響きは洒落てはいるが、それほど複雑な和声ではない。ところが、声部進行が尋常ではないのだ。普通ならば順次進行すべきところで跳躍進行しているところが少なくなく、また、順次進行をしていても音の行き先が普通とは少し違うのだ。が、縦の響きとして聴けば全く美しく、ごく自然に聞こえるから面白い。
この点を巧みに説明しているのが、西尾洋『和声の練習帖――手の形で和声感を身につける』(音楽之友社、2017年)だ(ちなみに、同書はなかなかの名著である)。その中に武満徹の音楽を和声で考える」という項があるが、そこで著者は「どうやってこのような『歌いにくい』和声が生まれたのでしょうか」と問い、それに対して「タテの和音の響きを個別にピアノで作って、後でそれを合唱に振り分けていったのではないか、と推察」する(同書、92頁)。そして、「このように、響きをひとつひとつ新たに作って並べていくタテ思考中心の発想は、ドビュッシーの作曲の思想と通じるものがあり、またジャズの和音付けも同じような手順で行うのです」(同)と説明する。なるほど、確かにこう考えると《翼》の歌いにくさにも納得がいく。
ところで、武満は英国のキングズ・シンガーズの委嘱で《手づくり諺》(1987)という男声合唱曲を書いているが、「向こうの人からそれを見て、『あなたはクラシックの作曲家で、しかも日本人なのに、どうしてこんなに上手に昔のバーバーショップコードを使いこなすことができるのか。イギリス人だって、こうは使えないのに』といわれたんです」(立花隆『武満徹・音楽創造への旅』、文藝春秋、2016年、22頁)とのこと。「バーバーショップ」スタイルというのは、たとえば次のようなものである(次の動画で初めの方。スタイルの説明もなされている:https://www.youtube.com/watch?v=FKDem6OW5wg)。なるほど、確かに武満の《翼》も響きとしては(もう少し複雑ではあるが)これに近い。ただし、声部進行は「バーバーショップ」スタイルの方が格段に自然だ(逆に言えば、武満の方が「凝っている)。