2020年6月24日水曜日

「もったいない」こと

   日本の人文系の学会誌なり大学紀要なりに掲載されている論文は基本的には日本語で書かれている。が、これでは日本人にしか読めない。すると、どれだけ優れた内容のものであろうと国外で知られることはないし、また、逆にどれだけ「しょーもない」ものであろうともその分野の世界基準の批判に晒されることもない。
 これは考えてみれば「もったいない」ことだと思う。少なくとも英語で書けば、もっと多くの研究者の目に触れる可能性があり(事実、私のような者ですら昔々、『美学』に書いた日本語論文の英文要旨(!)を見た国外の研究者からクロアチアの学会誌International Review of Aesthetics and Sociology of Musicへの寄稿を求められたことがあるくらいだ)、そこから生産的な議論が生まれる可能性もでてくるのだ(逆に、よほど特殊な問題を扱っているのならばともかく、メジャーな主題を論じているのに何のリアクションもないものは「所詮、その程度のものだ」ということがわかる)。すると、たとえば日本人が西洋音楽を研究することの意義(の有無)などももっとよく見えてくることだろう。
 というわけで、今すぐには難しいだろうが、徐々に「論文は英語で書く」ことを基本にしていくべきだろう(なお、こう言うのは、英語が力を持っているというどうしようもない現状があるからにすぎず、別に「英語帝国主義」を推進したいからではない)。