2020年6月25日木曜日

「どんな巨木も森を構成する一本の木である」

 金澤攝さんの快著『表紙の音楽史――楽譜の密林を拓く―― 近代フランス篇 1860-1909年生まれの作曲家たち』(龜鳴屋、2015年)(http://kamenakuya.main.jp/%E8%A1%A8%E7%B4%99%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%8F%B2_%E2%80%95%E6%A5%BD%E8%AD%9C%E3%81%AE%E5%AF%86%E6%9E%97%E3%82%92%E6%8B%93%E3%81%8F%E2%80%95/)は副題にあるように、1860-1909生まれのフランスの作曲家231人(!)各人の作品数点の表紙をあげ、作風についての寸評をあげたものである。こうしたものを読むと、今日の「音楽史」が如何にきめの粗いものであり、また、極めて選択的に語られた「物語」であることがよくわかる(もちろん、「物語」でない歴史など存在しないが……)。
 攝さんはこれらの作品を概ね自分で(一部は協力者の力を借りて)集め、もちろんきちんと目を通し、しかも各作曲家の中で作品を取捨選択した上でこの書をまとめている。そもそも、こうした作業をこの時代のフランスの作曲家に限らず、1760-1959年までの200年間について、ドイツその他の国の作曲家も含めて行っているのだ(この『表紙の音楽史』刊行の時点で「調べた作曲家の数」は「900名を超えた頃だろうか」(同書、4頁)と「序」にあるので、それから5年を経た現在ではその数はもっと増えていることだろう)。
その結果、攝さんは次のような認識に至った。すなわち、「モーツァルトやベートーヴェンの傑出した功績を否定しない」ものの「どんな巨木も森を構成する一本の木である点において等しい」ものであって、「作曲家が本物である限り、それぞれが時代のヴィジョンを写し出す不可欠のピースとしての意義を持っている」という認識に(同書、5頁)。すると、「ショパンやシューマン」のような有名で音楽のありようも十分に知られているはずの人たちでさえ、「従来私が抱いていたイメージとは、まるで別ものだった」(同)ということにもなるわけだ。その「まるで別もの」というのはどのようなものなのだろう。それを音楽史の「森を構成する」他の木々とともに見て(聴いて)みたいと思うのは、たぶん、私だけではないだろう。