武満徹のある時期までの作品の楽譜を見ると、書き方に不器用なところが散見される。が、それを補って余りある魅力がそこにはあるものだから、さほど気にならない。他方、後年の作品は熟達の書法を示しているが、いつも同じで面白くない。作曲の「技術」とは果たして何なのだろうか……(なお、私は作曲家の「書法の熟達」全般を否定したいのではない。念のため)。
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巧みな書法でもって自由に想像と創造を繰り広げられる作曲家がいる一方、武満徹の場合にはそれが「縛り」になってしまっていたように私には思われる。 彼は書き方を模索する中でこそ創意を発揮できたのであり、それが「できあがって」しまうと、細部を磨き上げて工夫を凝らすしかなくなってしまったのではないか。
なお、何度も繰り返すが、これは1970年代までの武満作品を高く評価する者の見方であり、1980年以降の作品の方がよいと思う者にとっては認めがたいものだろう。そして、私は自分の見方を覆してくれるような武満論の登場を待ち望んでいる。そうなれば、今まで好んでいなかった作品も楽しめるようになるからだ。