新旧の名ピアニストのインタヴューを読むと、しばしば同業者に対するまことに辛辣な口撃が目に付く。もちろん、それはその「人」に対する誹謗中傷などではなく、自分が理想とする音楽のありよう、精確に言えば作品の「解釈」との違いに対してである。
ところが、それとは異なる面で論難されているピアニストが一人いる。それはグレン・グールドだ。少なからぬピアニストがグールドを否定するのは、彼の演奏「解釈」に対してではなく、そもそも彼の演奏が「解釈」行為を逸脱したものであることに対してである。「演奏=作品解釈」というのが少なくとも20世紀以降のクラシック音楽界での常識だが、そうなると演奏で「創造」をも試みるグールドの所行をもっぱら「解釈」に勤しんでいる同業者が非難するのは至極当然のことであり、いわば防衛本能のなせるわざだと言えよう(なお、グールドを賞賛しているピアニストもそれなりにいるが、その賞賛の言葉は――私の知る限りでは――彼の「解釈を超えた創造」に対して向けられているわけではない)。
とはいえ、そのグールドの録音は死後40年を経て未だに聴かれ続けている。それに対して、グールドの批判者の録音(その中には私も日頃好んで聴くものも多く含まれている)が死後にそれほどの長きにわたって彼ほどに聴かれ続けることになるだろうか? 今から百年後、グールドとその批判者のどちらがより多くの聴き手を持っているだろうか? 私には全く見当が付かないし、その結果を確認することもできないが、大いに興味がある。
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グールドが演奏で創造性をいかんなく発揮したのはバッハであり、ヴィーン古典派の音楽であろう。それらは聴けば聴くほどに面白い。が、私が好むのはむしろロマン派の音楽での演奏であり、また、その延長線上にある(と言うのは乱暴すぎるのは承知しているが……)シェーンベルク作品の演奏である。