作曲家・原博(1933-2002)の「現代音楽」批判の書たる『無視された聴衆』(アートユニオン、1996年)を読み返しているが、読むたびにその説得力にただただ感服させられる。同書が出てから四半世紀が経つが、むしろ今の方がいっそうリアリティを持つ著作だと思う。現在残念ながら版が途絶えているが、新たな解説をつけて文庫か新書版で出せば、たぶん、少なからぬ読者が得られるだろう(私に解説を書かせてくれる奇特な出版社がないかなあ……)。
私は原の論には概ね賛成するが、ただ、1つだけ意見が異なる点がある。つまり、原が見積もっている聴き手の耳の許容限度は調性音楽だが、それは些か狭すぎると私は思う。聴き手の耳はもう少し柔軟であり、経験を積めばいわゆる「無調」の音楽でもものによってはそれなりに楽しめるようになるのではなかろうか。
とはいえ、それには作曲家がしかるべきレパートリーを供給することが欠かせない。そして、その際、聴き手と演奏家の「現実」をしかと見据えつつ、過去の「現代音楽」の「使えるところ」は使い、そうではないところはきっぱりと捨て去り、一作毎に受け手からの反応をフィードバックしつつ創作を行う必要がある(このことについては拙著『黄昏の調べ』ですでに述べた)。幸い「書く」力を持つ作曲家はそれなりにいるはずだから、あとは彼らがその決断をして実行してくれればよいわけで、そうなるのを私は「聴き手」の一人として待望している。
さらに言えば、その際、作曲家はアマチュア演奏家のレパートリー供給という点にも目を向けるとよかろう。新作の受け手は「聴衆」だけではないし、プロの演奏家だけではないはずだから。
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原が機能調性にこだわるのは、彼の創作のフィールドが「西洋芸術音楽」だからである。調性はそうした音楽の形式を貫く論理であり、彼の調性擁護は西洋(クラシック)音楽の諸形式や語法を創作の前提としていることの現れだ。
そうした原の考え方は首尾一貫しており、論理的・倫理的にも十分説得力を持つものだと思う。そして、実際にそのように創作を続けてきたこの人の誠実さと職人気質には私も心打たれる。
が、それはそれとして、異論もある。すなわち、「現在の日本人がそこまで本来異文化だった西洋クラシック音楽に縛られることもないのではないか?」ということだ。広い意味での調性に拠り(場合によってはそこから多少ははみ出し)つつ、必ずしも西洋クラシック音楽の形式や語法に縛られず、現代の演奏者と聴き手を喜ばせる音楽はありうるはずだ(私が原の『無視された聴衆』に「解説」をつけるとすれば、この点を中心にすえるだろう)。
もっとも、そうした音楽を生み出すには作曲家は演奏家や聴き手の「現実」に真摯に向き合わねばならない。が、それは前者にとっても好ましいことであろう。そこにはこれまで断絶されていた後者とのコミュニケーションの回復が欠かせないのだから(この点についても原の著書はいろいろなことを考えさせてくれる名著であり、復刊を望む所以だ)。